「三十歳・性の目覚め」


(1)


 三年生の卒業で空いた席が進級と入学で埋まり、4月はまだ新しい環境に戸惑っていた生徒達も5月の連休を過ぎると一応の落ち着きを見せる。真夏日を思わせる昼間の陽気は夕暮れになっても久留木高校の陸上グラウンドに熱を残していた。

 
 福岡県の久留木市には進学校の明修館があり、運動では久留木商、特技を持つ個性派は水築高と言われている。久留木高は平均的な生徒が集まった特徴のない高校と評価されていた。
 久留木高陸上部もその例に洩れない。参加校と競技数の関係で春の地区大会ではそこそこの成績を修め、県大会に3、4人が駒を進めても九州地方大会まで進出した生徒は記録にない。


 自主メニューのインターバル走り込みをこなした二年の田島洋子はトラックを離れ、上半身を屈めて荒い息を吐きながら砂場の方を見た。久留木高陸上部は男女に分かれて6時まで合同練習、7時過ぎが自主メニューになる。グラウンドには約半数の20人近くしか残っていない。
 『いた・・』 
 砂場を彷徨った視線をレンガの校壁に移し、芝生で壁にもたれて足を投げ出している倉田裕二のジャージ姿を捉えた。腰を伸ばし、裕二の方に歩む洋子を男子部員がさりげなく見ている。洋子は自分を走ることしか取り得がないと思い込んでいたが、柔らかみはなくとも引き締まった肢体は思春期の高校生を十分に刺激していた。


 裕二の肩に掛かっているタオルを勝手に取り、顔の汗を拭いながら洋子は横に腰を降ろした。裕二は洋子を気にしていないように正面を向いたまま表情を動かさない。
 「代表、駄目だったの?」
 「ああ・・」
 裕二の気のない返事に洋子の気持ちも沈んだ。去年は1年生で百メートルの代表に選ばれ、2位で県大会に進んだ。今年は顧問から百と二百の内示を受けている。洋子にとって地区大会は勝って当たり前、目標は県大会に勝ち残っての九州大会出場だった。 
 「それで黄昏てる?裕二らしくないな・・」
 慰める気持ちではない。本当に意外だ。三段跳びと走り幅跳びはもともと選択する部員が少なく、去年代表の三年生が卒業して裕二が本命視されていたが、中学で実績のある1年生が入ってきた。
 陸上は学年に関係なく実力の世界だ。だから洋子も去年は1年で代表になった。力をつけて上を目指す、それが洋子のやり方だが、裕二は違う。
 「陸上、やめようと思う・・」
 下を向いて裕二が独り言のように呟く。洋子は腹立たしさを越えて情けなかった。裕二は陸上が好きだからやっていた筈だ。洋子は黙々と練習するだけで記録に対する意欲も競争相手への闘争心も感じられない裕二に苛立ちさえ感じていた。頑なに自分のペースを守り通した裕二が、代表を外れたから陸上をやめるなんて納得出来るはずがない。
 「そんなにショックだったの?」
 「転向して五千の代表だと言われた」
 虚をつかれ、洋子の怒りは倍になって戻ってきた。
 バシッ!
 身体を起した洋子の右手が思い切り裕二の頬を打った。周囲から驚きと好奇の視線が集まる。
 「逃げたら軽蔑するからね!」
 二人は睨み合い、視線を逸らしたのは裕二の方だ。洋子は立ち上がり、裕二にタオルを投げつけて振り返らずにグラウンドへ歩んだ。汗は引いていたが、目から涙が伝っていた。
 『裕二の・・弱虫・・』
 洋子には裕二の気持ちが判る。性格だから仕方ないのかもしれない。でも、本当は走るのが好きなのに競争が嫌で三段跳びと幅跳びを選んだ。どうしてそんなに争うのが嫌いなの?比較されるのが嫌なの?裕二がいくら自己記録を伸ばしたって地区レベルでもないのよ。腰のバネが強くない裕二の基礎体力と粘りから顧問が五千を勧めるのは当たり前じゃない。それなのに、陸上を止めるなんて・・

 
 洋子はそのまま更衣室に行き、誰とも口をきかずに着替えて家に帰った。少し気分が落ち着いてから思い出した。裕二が軽蔑という言葉を酷く嫌がっていた事を。陸上部の仲間が見ている所で叩いてしまったんだ。裕二に絶交されるかもしれない。もっと親しくなりたかったのに、嫌われたかもしれない。洋子はベッドで涙を流し、枕を濡らした。

 
(2)


 裕二は地区大会に参加するか退部するかの決断に迷い、合同練習だけで早めに帰るようになった。 玄関を開けて中に入ると土間に靴が並び、奥の方から大勢の笑い声が聞こえた。
 「裕二、悪いけど・・」
 母親が奥を気にしながら現われ、裕二に千円札を渡す。裕二は鞄を置いてそのまま音がしないようにゆっくりと戸を閉め、外に出た。

 
 別に珍しい事ではない。兄の良一は進学校で有名な明修館の生徒会長で、九大を確実視されている秀才だ。兄弟の部屋は共有だから兄の友だちが集まれば裕二の居場所はなくなる。いつものコースで吉野家の牛丼を食べ、純喫茶「フラッター」へ向かった。 


 裕二は今の状況を惨めだとは感じていない。兄の良一が小学校5年で交通事故にあうまでは普通の仲のいい兄弟だった。大通りで自転車がふらつき、良一は車と接触して半年間の入院になった。右手があまり曲がらず、出席日数で留年になる。両親は良一が僻まないかと心配し、友だちが集まるように気を使って大事にした。周囲の励ましと親の尽力で、良一は人が変わったように優等生になったが、良一中心の家で裕二は取り残されていた。
 左手を訓練して右手のハンデを克服し、成績や学校活動で注目される兄と学年で一つ下の裕二は、よく周囲から比較された。成績は中の上だったが、出来の悪い弟という評価しか与えられない。そしてそれを気にしていたのは裕二ではなく良一だった。
 コンプレックスを隠して外面を気にするようになった良一は、自分は特別だというエリート意識を強く持っていた。そして自分より劣るものを軽蔑して優越感を抱く事になる。その一番手近な存在が裕二だった。自分の弟なのに出来が悪いのは許し難い汚点だと思い込んでいた。


 良一は明修館にトップで合格し、すぐに頭角を現わした。裕二もギリギリながら明修館を受験するつもりだったが、良一が大反対した。落ちれば滑り止めの私立は学費が高くて負担だし、まぐれで合格しても落ちこぼれの弟が明修館にいたら恥だという事らしい。裕二は久留木高に志望を変えて合格したが、良一は弟が久留木に通う鈍才だというのを学校の仲間に隠したがっている。だから裕二は兄の友だちがいる時に自分の家でも顔を出してはいけなかった。


 大通りから離れた閑静な住宅街の近くにある純喫茶「フラッター」。羽ばたきと訳するそうだが、裕二は由来を聞いていない。古ぼけたレンガ造りに似合った彫刻を形どる扉には『本日休業』の札が下がっていた。
 さて、どうするか。日曜が定休日なのに何故金曜に閉まっているかなんて考えても仕方がない。家にはまだ戻れないし、他に時間を潰せる場所は思いつかない。裕二は試しに扉のノブを引いてみた。開く。そのまま灯りのない店内に入った。英国風の落ち着いた造りでカウンター席はなく、入口近くから窓際に4人掛けが5卓、奥に2人掛けが2卓だけある。街灯が窓から射し込み、店の中を見回せた。もう染み込んでいるコーヒーの香りが無断で入ったことの罪悪感を薄れさせる。裕二はいつものように一番奥の席に座った。


 裕二が「フラッター」を知って1年近くになる。たまたま練習で近くを走り、コーヒーの香りに誘われて入った。今ではカウンターの無愛想な菅野が目で問いかけ、小さく頷いて奥の席に座ると由紀子がモカとナッツを黙ってテーブルに置いていく。裕二は美味しいコーヒーと静かな音楽で時間の流れを忘れる事が出来た。
 長身の痩せ型で白髪が目立ち、チョッキと蝶ネクタイでサイホンをいつも睨んでいる菅野には近寄り難い雰囲気がある。寡黙で菅野の声がどんなだったか裕二は思い出せない。由紀子は髪を上で束ね、整った顔立ちに化粧はないようだった。地味なワンピースで足元まで隠し、物静かな由紀子にほのかな憧れを抱いていた。
 ありふれた椅子がオーダーメードのように裕二を受け入れている。何も悩まず、何も考えず、ただ座っているだけでも寛げた。自分の為だけの安らぎの場所。しかし心地よい沈黙は階段を降りるような足音で破られる。
 「誰?」
 ドアを開ける音が続き、カウンターの奥から由紀子が顔を見せた。


(3)


 「フラッター」の二階で、裕二はガラスをはめ込んだテーブルを間に由紀子と向かい合って腰を降ろしていた。8帖ほどのリビングは柔らかい絨毯が敷き詰められ、テーブルの上には洋酒瓶と紫がかった酒が半分ほど入っているグラス、それにナッツの入った菓子皿が置かれている。
 「これね、テュツットというスペインのお酒。苦味が柔らかいから好き」
 上半身をテーブルに傾け、グラスを持ち上げて楽しそうに揺らす由紀子。ゆったりした部屋着の胸元が広がり、裕二の位置からブラをしていない豊かな胸が見える。いけないと思いながら目を逸らせなかった。
 「テュツットという名前はね、植物からきているのよ」
  グラスから甘い香りが漂う。いや、由紀子の身体からだろうか。裕二は由紀子の束ねていた髪が床につくほど長かったことを初めて知った。透き通ったテーブルが崩した膝の太股や細長く形いい足を露わにしている。
 「色からすると、薔薇ですか?」
 「いえ、忘れな草・・」
 嬉しそうに言って、由紀子はグラスの酒をゆっくりと喉に流し込んだ。いつもの営業的な笑みと違い、目が輝いている。アルコールのせいか、上気したように肌は赤らんで艶があった。
 「何を忘れるんですか?」
 機械的に裕二が聞いた。声が掠れる。
 「当ててみて」
 クスッっと悪戯っぽく笑って由紀子が裕二の眼を見た。
 「昔の恋人とか」
 「あら、今はいないの?」
 「いえ、いて欲しくないから・・」
 おかしそうに声を出して笑い、由紀子は身体を反らして絨毯に両手をついた。胸元は遠ざかったが、部屋着から突き出した二つの隆起と締まったウエストが裕二の目を奪う。
 「あのね、明日が30歳の誕生日なの」
 「えっ?」
 予想外の言葉に裕二はまごついた。
 「それで、本日休業ですか?」
 「悪い?」
 裕二を睨むふりをして由紀子はグラスの残りを飲み干す。
 「いえ・・」
 裕二は自分よりずっと大人の由紀子に子供っぽい一面があると知って何となく安心したのだが、由紀子は不満そうに口を尖らせた。
 「女が20代から30代になるのよ。お姉さんからおばさんに」
 テーブルをずらし、裕二に身体を寄せてくる。
 「今夜で最後のお姉さん・・」
 裕二の頬に細い指が触れ、唇が重ねられた。由紀子の言った酒の柔らかな苦味が裕二の口に広がる。舌と舌が絡み合って優しく吸われ、柔らかい感触が裕二の胸で揺れていた。
 長い口付けの後、由紀子は裕二から身体を離して立ち上がった。真剣な表情で呆然としている裕二を見つめる。
 「今夜だけ・・」
 自分に言い聞かせるように呟き、部屋着のホックを外していった。思いがけない出来事に頭も身体も痺れていた裕二の前に、密かに眺めた週刊誌の写真など問題にならない美しい肢体が現われた。最後のショーツを脱ぎ、全裸になった由紀子が誘うように微笑む。裕二は立ち上がって由紀子の前に進んだ。裕二の身長が175だから、頭が目より少し下になる由紀子は160くらいだろう。しかし由紀子は絨毯に両膝をついて頭の位置を下げ、裕二のベルトに手をかけた。


 部屋の蛍光灯は消されているが、開けたままの窓から射しこむ月明かりで上に乗っている由紀子の美しい身体がはっきりと見える。絨毯に身を横たえ、裕二は由紀子のされるがままになっていた。
 下半身の繋がりはそのままに由紀子だけが激しく動く。初めての快感に溺れながらも裕二は身体を動かさなかった。
 これは儀式だ。裕二が男になる儀式ではなく、由紀子にとっての大切な儀式。由紀子は裕二ではなく、男の肉体だけを求めている。生贄の裕二は物になりきらねばならない。言葉はなく、由紀子の荒い息遣いと呻き声だけが部屋を支配していた。何度も果て、由紀子の手や口で元に戻る。全身で由紀子のしなやかさを感じながら、裕二は由紀子を抱きしめたいという欲望に耐えた。由紀子の身体が痙攣を起したように小刻みに震え、強く締めつけられた裕二がまた放つ。繋がりが解け、ゆっくりと由紀子が裕二の上に倒れこんできた。儀式の終焉だ。
 「忘れな草ってね・・」
 裕二の胸に顔を埋めたまま動きを止めていた由紀子が呟くように囁いた。
 「忘れないでって意味なの・・」
 自分の胸を伝う温かい水滴は、汗ではなく涙なんだと裕二には判った。


(4)


 6月20日、快晴。
 地区大会で百メートルの2位に続き、二百メートルも1位で県大会出場を決めた洋子は、仲間の祝福を受け流して久留木市営競技場を出た。通路脇の芝生ではこれからの競技に出場する選手達が軽めのウォーミングアップをしている。少し離れた木陰に腰を降ろし、ぼんやりと通路の方を眺めていた。
 とても威張れる内容じゃない。スタートも悪かったし、得意の後半も伸びがなかった。こんな記録では県大会で恥をかくだけだ。練習は身体を痛めるほどやってきた。これが自分の限界なんだろうか。
 『引っぱたいて軽蔑するって言ったんだもん・・怒るの、当たり前だよね・・』
 あの日以来、洋子は裕二とまったく言葉を交わしていない。1年の時からの部公認カップルが喧嘩別れしたという話はすぐに広まった。女子部員は同情めいた言葉で洋子から原因を聞きだそうとするし、男子部員は手の平を返したように言葉をかけてくる。彼らは知らなかった。裕二と洋子はデートどころか手を握った事もない。グラウンドの休憩だけが二人の接点だった。


 洋子には1歳年上で明修館に通う姉がいる。美人で優しく、頭がいい弓子は洋子の憧れであり、自慢だった。弓姉に勝てるのは足の速さだけ。だから陸上を始めた。自分にとって唯一の取り得。これが駄目だったら、何にもなくなってしまう。洋子にとって、自分の存在価値を確かめられるのが陸上だった。
 洋子は明修館で一番の秀才で教師や生徒の信望を集めている裕二の兄さんの話を姉から聞いていた。だから同じ陸上部で一緒になった裕二も自分と同じ気持ちで陸上をやっているのだろうと思っていた。同じ陸上部でも練習は別だ。洋子の勝手な仲間意識は形にならず胸に収まっていた。


 女子部室の更衣室で、たまたま1年生だけになった気楽さから大胆な話で盛り上がった。男子部員の品定めでは四百の末次の人気が抜群で、きゃあきゃあ騒ぎながら男子を餌食にしていた。洋子は話に入っていなかったが、同じ短距離走の香織から誰が気になるかと聞かれてうっかりと裕二の名を挙げた。話は男子部員にまで広がり、ほとんど目立たない裕二が冷やかされる羽目になっていた。


 自分の不用意な言葉で裕二が困ってると思った洋子は、とにかくあやまろうと思って休憩している裕二の所に行った。グラウンドは暗黙の了解で合同の場を除けば男子、女子と時間差も絡めて分かれている。多くの部員が注目している中で、裕二は自分の前に現われた洋子に肩のタオルを寄越した。受け取ったタオルで顔を拭き、洋子は何も言えずに隣に座った。そのまま時間が過ぎ、呼ばれて裕二が次の練習を始める。その日から機会があれば洋子は裕二と休むようになり、二人は部公認のカップルとなった。


 洋子は裕二への気持ちをどう整理したらいいのか判らない。漠然と友だち以上恋人未満かなと思っていた。考えてみれば、勝手に押しかけてまとわりつき、喧嘩を売って別れたようなものだ。あの日から半月ほど裕二は自主メニューをせずに早く帰った。あやまりたくても男女別の合同練習後に相手がいないのだから機会がない。それから急に裕二は猛練習を開始した。そして洋子が視線を向けると後ろを向く、近寄ろうとすると場所を変える。完全に無視され、洋子は諦めるしかなかった。 
 「倉田君ね、日曜日に綺麗な女の人と歩いていたよ」
 更衣室で何気ない風を装った香織の言葉は洋子の胸に突き刺さった。裕二との喧嘩別れの原因についてはいろんな推測が流れているらしい。
 「関係ないわ」
 つい声が尖り、ロッカーを閉める音が大きすぎた。
 「そうよね、もう関係ないのよね」
 納得したように香織が頷いて笑顔を見せ、別れの原因は裕二に新しい相手が出来たからという噂が広まった。


 『関係ないわよね・・もう』
 洋子は意味もなく草をむしった。そろそろ裕二の五千メートルが終わった頃だ。見たくなかったから競技場を離れた。考えてみれば、裕二と自分は何の関係もないんだ。裕二が部をやめようと、五千の代表になろうと、それは裕二だけの問題だったんだ。それを、叩いたり、軽蔑すると言ったり、自分は何のつもりだったんだろう。
 洋子は予感めいたもので顔を上げた。通路をジャージの裕二と髪の長い綺麗な人が笑いながら通り過ぎる。裕二は洋子に気づかなかった。
 『そうなんだ・・裕二は弓姉タイプが好きなんだ・・』
 自分の短い髪に手をやって洋子は溜息をついた。それなら私が敵うはずがない。今の人は弓姉よりずっと年上に見えるが、感じがよく似ている。
 うずくまるように両腕で顔を隠している洋子を周囲の他校生徒は競技に負けた選手と思っただろう。悔しいからではなく、ただ悲しくて洋子は涙を流していた。 


(5)


 7月29日の県大会に駒を進めるのは5人。女子の百、二百と四百、男子の三段跳びと四百、それに三千。裕二はトップにかなり離されたが、2位に入賞した。
 『これでいいのかな・・』
 一人で走りこみのメニューをこなし、裕二は芝生に寝転んで休んでいた。県大会出場者は自由に日曜の特錬が出来る。裕二はわざと他のメンバーが引き上げた後の暑い午後に練習を開始した。
 地区大会での活躍を由紀子は喜んでくれた。だが、それだけだ。
 『由紀子さんは、僕の事をどう思っているのだろう?』
 二人の体の関係はあの夜だけだ。裕二は由紀子の哀しみを理解し、慰めてやりたかった。それには目の前の事から逃げてはいけない。五千だって、相手は他の選手じゃなく自分だと判った。もっと自分が強くなれば由紀子さんも心を開いてくれる。そう思って頑張ったが何も変わらない。
 いや、あの夜から由紀子さんは変わった。髪を下ろし、服装も表情も明るくなった。定休日の日曜には映画や動物園にも気楽に付き合ってくれる。しかし、それは裕二を一人の男性ではなく、可愛い弟という感じで接している。
 「いいかな?」
 物思いに耽っていた裕二は低い男の声に驚いて身体を起した。横に憂い顔で中腰になっていたのは「フラッター」の時と違って私服姿の菅野だった。
 「何か・・」
 「いや・・少し話がしたくて」
 むしろ菅野の方が困惑したように裕二から視線を逸らす。裕二は次の言葉を待ったが、なかなか菅野は口を開かなかった。 
 「裕二君は・・由紀子さんの事を・・どう思っているんだ?」
 無理に押し出したような菅野の言葉に裕二は戸惑った。
 「菅野さんに関係あるんですか?」
 「うん・・ないだろうな。ただ・・由紀子さんが心配なんだ・・」
 裕二はあっと心で呟いた。菅野も自分と同じ気持ちで由紀子を見ているのか。
 「僕と付き合うのが由紀子さんにとってよくない事ですか?」
 「そうじゃない・・むしろ由紀子さんと・・裕二君がうまくいけばと・・」
 菅野の言葉はますます低くなり、聞き取り難い。細面の顔は寂しげに見える。今まで父より年上と思われる菅野に裕二は少し怖いものを感じていた。由紀子と1回だけだが身体の関係を持ち、休みに会っていることを不快に思っているのではないか。しかし、今の菅野はむしろ遠慮するように裕二の気持ちを確認しようとしている。
 「菅野さんと由紀子さんの関係を教えて下さい」
 菅野の身体がビクッと震えた。恐れていた質問だったのだろう、許しを乞うように裕二を見る。
 「由紀子さんは自分のことを話してくれません。僕も聞いてはいけない気がして、何も知らないんです。だから、好きとか嫌いとか言えない。教えてください、由紀子さんとの事を」
 菅野は俯いたまま黙っていた。裕二も目を逸らさずに菅野を見つめて応えを待った。二人にとって長い時間が過ぎ、菅野が諦めたように口を開く。
 「俺は・・由紀子さんのご主人の野村さんを・・刺し殺した」
 目から涙が零れていた。
 「だから・・これ以上・・由紀子さんの苦しむ姿を見たくない・・」
 忘れてはいけない記憶だが、口に出すのは辛い。菅野は目を押さえて話し始めた。


 10年前まで、菅野は平凡な市役所の職員だった。妻と高校生の子供。土地の値下がりで家を持とうと思い立った。交通の便はそれほどでもないが適当な新築が見つかり、不動産会社と契約をした。信用して言われるままに実印を押し、ローンを組んだ。入居は半年後の予定で、3カ月後に不動産会社は倒産する。
 法律の仕組みは菅野にすべて不利に出来ていた。家は会社の債権者が没収し、ローンは払い続けなければならない。しかも身に覚えのない誓約書とか保証書が突きつけられ、給与も賞与も抵当に入ってしまった。詐欺だったんだ。しかし法は破産した不動産会社の味方をして負債を全て菅野に押し付ける。
 家庭は崩壊し、菅野は取立てに苦しんで市役所をやめ、退職金で一部を埋めた。切羽詰った菅野には言葉巧みに騙した不動産会社の社長に対する復讐しか残っていなかった。興信所に依頼し、社長が別の不動産会社の顧問におさまっている事を知った。そして、包丁を持って会社の前で社長が来るのを待ち構えた。


 「見つからぬように・・少し離れた場所に身を隠してた。人通りは・・あまりない場所だった。夕方、社長がタクシーで会社の前に現われた。俺は・・一直線に・・社長の胸を狙って・・包丁を手に走った。しかし、通りがかった由紀子さんのご主人が・・止めようと間に入った。俺の包丁は・・由紀子さんのご主人の胸に・・即死だったそうだ」
 裕二は口を挟めなかった。とんでもない事を聞いてしまった悔いで言葉が出ない。
 「由紀子さんのご主人・・野村さんは翌日の奥さんの誕生日プレゼントを探すために・・何の関係もないのに・・俺の手で・・」
 それでは、あの日はご主人の命日だったんだ。だから店を休んで、酒を飲んで・・
 「殺人と殺人未遂・・由紀子さんは・・減刑嘆願書を裁判所に出してくれた・・8年の刑が5年で出られた・・出所するとすぐ、由紀子さんにあやまりに行った・・死ねと言われれば死ぬつもりだった」
 「もういいです。判りました。それ以上、聞きたくありません」
 菅野の苦しみ、由紀子の哀しみ、それは切実な大人の世界で裕二などに立ち入れる所ではない。裕二は由紀子を理解し、少しでも慰めようとしたのは思い上がりだと知った。
 「裕二君は・・由紀子さんを変えた・・でも、哀しみが諦めになったような・・いい事なのか悪い事なのか判らない・・」
 諦め・・裕二にはその意味が判る。それでいい筈はないが、自分ではどうしょうもない。
 裕二と菅野はそれ以上、何も言わずに夕暮れの空を眺めていた。


(6)


 「えっ?」
 驚いて振り返ったが、裕二の背中はもう遠い。夏休みに入り、県大会まで1週間。グラウンドでスタートのシュミレーションをしていた洋子の背中に走っていた裕二がかけた一言だった。
 「1位になったら洋子を抱く」
 確か、裕二はそう言った。
 『抱く・・裕二が私を抱く・・どうして?』
 意味が判らず、洋子は立ち尽くした。もう練習にならない。逃げるようにグラウンドを離れた。


 『私が叩いた事への仕返し・・』
 『あの女の人と何かあって、その鬱憤晴らし』
 『誰でもいいから女を抱きたいという男の欲望』
 『ただの嫌がらせ、冗談』
 『県大会で自分を奮い立たせる為』

 
 家に帰ってからも頭から離れない。高校二年での初体験は早くも遅くもないだろう。たとえば香織は大学生の彼氏がいる。里美だって、真理子だって・・本当に最初は痛くても後で楽しくなるのか、やってみないと判らない。でも遊びは嫌だ、好きな人と経験したい。
 洋子の頭の中をいろいろな思いがぐるぐる回る。裕二は好きだ、片想いだけど。それならいいのだろうか?1位になったらお祝いに抱かれる、私は賞品なの?そう、裕二にとっては物なんだ。女の身体を持った物。それなら裕二には遊び?それで、抱かれたら裕二は私を許してくれるんだ。その先は?元の友だちに戻るの?待って、裕二が1位になれる筈がないじゃない。地区予選でも2位がやっとだった。あの綺麗な人が応援していたのに・・


 浴槽で洋子は鏡とにらめっこをしていた。鼻は・・少し広い。目は・・細い。一重まぶたって冷たく見えるのかしら。走るのに邪魔だからずっと髪を短くしている。額は・・これも広い。全体は・・十人並み?でも香織は男子部員で私のファンがけっこう多いと言っていた。末次君なんて、裕二よりずっとハンサムで優しい。いつも声をかけてくれる。今は遠慮してるけど、大会が終わったら交際を申し込まれるかもしれない。


 浴槽から出て鏡から少し離れて全身を写してみる。胸は・・普通。Bカップだけど、形はいい。色が黒いのは仕方がない。股はやや太いかな・・これも仕方がないわ。ウエストは締まっているし、メリハリはちゃんとある。でも、男の人って柔らかい感じが好きなのね。弓姉みたいな・・
 もし、もし裕二が1位になって、私を抱こうとして・・この身体を見たらガッカリするかもしれない。そうなったら、それで終り。裕二も初めてかな・・それともあの女の人と・・


 洋子は自分が判らなくなっていた。ベッドに入っても眠れず、裕二の事ばかり考えていた。
 でも、裕二が1位にならなかったらどうなる?このままの絶交状態が続くの?1位になると考える方がおかしい。ほとんど可能性はないわ。そうだ、その時は仲直りして来年の目標にさせればいい。来年の県大会で勝ったら抱かれてあげるって。本当は裕二も仲直りのきっかけが欲しくてあんな事を言ったのかもしれない。照れくさいから私を脅かしたとか・・でも、でも・・

 
 ふと肝心な事に気がついた。本気かはともかく、裕二は1位になると宣言した。そうなれば九州大会。私の目標と一緒だ。裕二と私が同じ目標に向かって進めるんだ。裕二が1位になれなかったら、私が1位になって裕二を笑ってやる。いえ・・裕二の分まで頑張ったんだから、仲直りしようって・・ともかく、裕二がどうなるかより、私がどうするかだ。女の意地をみせてやる!
 結局、洋子は一晩中眠れなかった。


(7)


 博多の森競技場。
 福岡県陸上競技大会で洋子は百と二百の両方で九州地方大会の切符を手に入れた。
 「凄いじゃん、校史に残る快挙よ!」
 応援に来ていた香織たちがまだ走り終わったばかりで息の荒い洋子の周りに集まり祝福を送る。
 「駄目よ、両方とも2位だもん。福高の柳田さんには勝てなかった・・」
 「仕方ないわよ、柳田さんは去年も優勝してるんだもん。でも三年だから来年は洋子の天下ね」
 汗を拭いながら洋子は裕二の姿を探していた。次は貴方の番よと言ってやりたい。しかし、何処にも裕二は見当たらない。
 「残る競技は男子の五千だけね。洋子は見ていくの?」
 洋子の気持ちを見抜いたように香織が聞いて来る。
 「当たり前でしょう!」
 つい苛立った声が出てしまい、香織達が驚いた顔をしていた。
 「じゃ、私達はスタンドにいるから・・」
 しらけた雰囲気で洋子の周囲から人がいなくなり、洋子は芝生の端に場所を移して五千のスタートを待った。


 五千は予選がない。一発勝負だ。32人が一斉にスタートを切る。洋子には人が多すぎて裕二が判らなかった。トラックを12周半。5周目位でかなりばらける。ペースは速めだった。俯き加減で最後尾についているだけに見える裕二。
 8周目で裕二が早めているわけではないのに次々と脱落者が後ろに流れる。第二集団に入ったかと思うと、すぐに先頭になり、前の2人に近づいていく。あと3周。
 裕二が顔を上げた。二人の背中を、はっきりと視界におさめた。一人が振り向いて裕二に気づき、スピードを上げる。裕二は置いていかれた選手を抜いた。あと1周。
 裕二がスパートをかけた。先頭との差は縮まっていくが、もう残り200、100、並んだ。まるで短距離のような競り合い、ゴール直前、裕二は胸をテープに押し込んだ。


 『どうしよう・・』
 喜んでいいのか判らない。駆け寄って裕二におめでとうと言いたいが、身体が動かない。これで裕二と一緒に地方大会に行ける。それは嬉しい。裕二がどう思おうと、裕二が好きだから。
 「帰るぞ」
 顔にタオルが落ちてきて、目の前に裕二が立っていた。
 「着替えたら彫刻の前だ」
 そのまま裕二がさっさと控え室に去っていく。スタンドでは香織や末次君も二人が一緒の所を見ただろう。
 『私は・・何も約束していない・・』
 洋子は立ち上がって女子更衣室の方へ向かった。


 「ゆぅうじぃぃ・・」
 久留木城跡の裏手にある藪の中、石垣を背に洋子は喘いだ。博多駅からJRで久留木駅に戻り、ただ裕二の後を付いてきてここに来た。周囲から見られる心配はないが、こんな場所での初体験は惨めだ。荒々しく裕二は胸を揉み、唇を吸う。もう立っていられない。
 「お願い・・いや」
 洋子は泣きながら両手で被さってくる裕二を押しのけた。裕二は一旦離れてから洋子の横に身体を移す。
 「駄目だ。もう洋子は僕の彼女だ」
 「えっ?」
 彼女という言葉に洋子はときめいた。
 「末次なんかに渡さない」
 「待って・・」
 裕二が洋子の肩を掴んで引き寄せる。そのまま裕二の胸に収まった洋子をを強く抱きしめた。
 「ずっとこうしたかったんだ・・」
 最初は休憩で横に洋子が座っているだけで楽しかった。でも、だんだんと洋子の盛り上がった胸やスラリとした足を盗み見して胸が高鳴るようになった。自分が異常なのかと思った。そして、由紀子さんとの経験で、男女の愛情に肉体的なものがあっても自然だと知った。
 洋子を抱きしめたいという気持ちが強すぎて、顔を合わせることが出来なくなった。もう近くに洋子がいたら自分を抑えられないかもしれない。だから賭けをしたんだ。1位になったら、自分にも洋子を抱きしめる権利があると勝手に決めて・・
 「私の事を・・どう思っているの?」
 「好きに決まってるだろう」
 何を今さらという不満そうな顔で裕二が洋子の顔を見る。そうだ、私達は言葉に出さなくても、ずっと好きあっていたんだ。部公認のカップルだったんだから。
 「裕二・・」
 洋子は身体を押し付け、目を閉じて口を突き出す。裕二の唇が被さる。震えながら裕二の口を吸った。


 離れたくなかったが、日が落ちて暗くなると藪の中というわけにはいかない。洋子は表通りに出て家に遅くなると電話し、裕二と一緒に喫茶店「フラッター」に入った。
 裕二が何も言わず、まっすぐと奥の席に座る。洋子も向かい合って座った。見回すと2、3人のお客がいるが、カウンター近くで微笑みながら自分達を見ている女性に気がついた。あの人だ。
 「どうだった?」
 テーブルに二人分のコーヒーとナッツを置き、親しそうに裕二に聞く。
 「1位だったよ。こいつ、同じ陸上部の田島洋子、百と二百で2位」
 「じゃ、二人とも九州大会ね。お祝いにこれは私の驕り」
 由紀子が笑ってレシートをポケットに入れ、優しい目で洋子の顔を見た。
 「洋子さん、裕二君をよろしくね」
 「はい・・」
 客の一人が帰りかけ、由紀子はレジの方に離れて行った。
 何だ、いつも来ている喫茶店のお姉さんだったんだ。私ったら変に勘ぐってトンチンカンな事ばかり・・恥ずかしくなって洋子は俯いてしまったので、裕二とカウンターの菅野、それに由紀子との微妙な視線の絡みに気づかなかった。


 「フラッタ−」を出て、裕二が洋子を家まで送ることになったが、自然と寄り添ってお互いの身体に腕を回している。
 「でも・・意外だった」
 「何が?」
 「何と言うか・・洋子って結構派手な私服着るんだ・・」
 「いいじゃない、別に」
 拗ねたように洋子がそっぽを向く。ミニスカートに胸元が開いたTシャツ。下着もすべて新品だ。まさか、裕二に抱かれると思ったからなんて言えない。裕二って、私より奥手なんだ・・キスして、胸に触って、抱きしめて満足するんだから。
 「あのね・・」
 「うん?」
 「裕二と二人で旅行したいな・・泊りがけで」
 女らしくない大胆な言葉とは判っている。でも、ずっと裕二に抱かれることを考えていた。とっくに覚悟は出来ているんだから抱いて欲しい。愛して欲しい。自分のすべてを奪って欲しい。相手が大好きな裕二だったら後悔しないし、怖くない。
 「九州大会、熊本だよな・・」
 「うん・・」
 「終わったら、阿蘇・・回ってみようか・・」
 「うん・・いいよ・・」
 家の前で別れる前に、もう一度抱きしめてもらいたくて洋子は公園のある道へ裕二を誘った。


 最後の客を送り出して由紀子は扉に鍵をかけ、カウンターの菅野の方に振り返った。
 「菅野さん、裕二君に話したんですね」
 「はい・・すみません・・」
 菅野は深く頭を下げた。
 「いえ、お礼が言いたいんです。私からは話せなかった。裕二君を困らせるんじゃないかと思って」
 「彼は・・自分の道を選んで・・」
 「ええ、これでいいんです。私の時間は止まっているけど、裕二君の時計まで狂わせたくなかった」
 菅野は顔を上げ、首を振った。
 「俺が言うのは酷いと判っていますが・・由紀子さんの時間は止まっていません。裕二君と同じだけ・・動いています」
 「そう、時間は動いている。いつのまにか、私は健介さんより年上になってしまったわ」
 寝室に置いている健介さんと二人で写った写真。リビングで裕二君を抱きながら、私は忘れようとしてたのだろうか、忘れないでと言おうとしていたのだろうか。
 「時間は・・ただ過ぎるのでもなく・・止まるのでもなく・・重なっていくのです。私から・・ご主人を忘れろなんて言えません。でも・・その上に由紀子さんの・・幸せな人生を・・」
 「菅野さんはどうなの?」
 「すみません・・俺にはどっちみち残された時間が・・少ないから・・このまま・・」
 「ごめんなさい。そうですね、私もいつか・・自分から時間を動かすかもしれません。裕二君で少し揺すってみたんですね」
 裕二と洋子が眩しかった。高校時代の健介さんは知らない。だから、ダブらせずに裕二君を見ることが出来た。そして、30歳になった今、健介さんがなれなかった30代か40代の人と巡り合うかもしれない。そうすれば、菅野さんの時間も動くのだろうか。
 「ねぇ、裕二君たちの九州大会、店を休んで応援に行きましょうよ。折角だから1日延ばして4人で阿蘇でも回るの。二人も喜ぶわ」
 「そうですね、賛成です」
 身近に若い二人がいれば華やいで楽しい。由紀子は計画を考えて微笑んだ。その二人にとって、非常に迷惑な話だとは思ってもいない・・