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「デリア」
1.マニラ
タラップから降りる途中で、僕は思い切り深呼吸した。 日本とは違う柔らかな風を吸い込み、細かい事で思い悩んでいた自分を吐き出す。 異質な景色と熱い陽射しに目が眩んだ。現実感が形を変え、透き通った原色の世界に入り込む。
マニラには慣れても飽きる事がない。むしろ落ち着ける場所に戻ってきたという安堵感が強かった。 そっけない税関、空港を出ると子供たちが手を伸ばして寄ってくる。 現地ガイドの誘導でバスに乗りこみ、マニラ湾を見ながらホテルに向かうだろう。そして、流れの先にはデリアが待っている。
3年前、本社から支社に事務主任で転勤した僕は支社の女性職員達とうまくいっていなかった。 もともと僕は同期の中でも生真面目の方だと言われている。時間中に遊びの話で盛り上がる彼女達に我慢が出来なかったし、彼女達にすれば前任者はよく食事や飲みに誘ってくれたのに、今度の主任は何もしてくれない、という不満があったようだ。
女性が団結すると陰湿な陰口や村八分状態を作る。責任者でありながら僕は軽視され、当然の指示にも皮肉を込めた反発を受けた。体の具合がおかしくなって病院に行ったが、自律神経失調症の疑いと言われた。
人間関係がうまくいかなくて僕の様子がおかしいという噂は同期に中で広まっていたらしい。 独身寮で隣に住んでいる須賀が、5月の連休を利用したフィリピン旅行に僕を誘った。
「田村には気分転換が必要なんだよ。自分を変えないと状況は変わらないさ」 「フィリピンに行って何が変わる?」 僕は海外旅行に全く興味がなかった。 「駄目でもともとさ。新しい経験になるのは間違いない。試す価値はあるぜ」 そう言われると、別に行く理由もないが、行かない理由もないように思える。 結局、どうでもいいやという投げやりな気持ちで旅行に参加した。
最初はすべてが怖かった。 異質の街全体が拒絶しているようで、英語の看板や掲示は場違いを感じさせたし、現地の人から買春旅行のいやらしい日本人だと軽蔑されているんじゃないかと気になった。 ガイドや須賀の言葉もほとんど耳に入らず、ホテルでは部屋に閉じこもったまま何をしていいのか判らなかった。 入ってきたボーイが何か一生懸命英語で説明していたが、僕が何の反応も示さないので肩をすくめて出ていったのを覚えている。
夕方になって、須賀が若いフィリピン男性を部屋に連れて来た。 「ガイドに紹介してもらったジェフだ。日本語は話せる。晩飯を食べに行くぞ。」 ジェフは人懐っこい笑顔で挨拶したが、僕は無愛想に名乗る事しか出来なかった。 須賀とジェフは前から知っているような気軽さで冗談を言い合っている。レストランで食事をしながら須賀はいろいろと穴場や面白い場所の情報をジェフから集めていたが、僕はまだ緊張状態だった。
「じゃ、手頃なのはマドンナだな。案内してくれるか?」 「いいよ。近いし、安心。時間が早いからいい娘、揃ってる。」 須賀とジェフで話がまとまり、僕はまだ状況が理解できないまま二人について外に出た。ほとんど喋らない僕をジェフは気難しい男と思っていただろう。
タクシーで中心街から郊外に走り、西部劇の町を思わせるような細長い店が並ぶ通りに入り、カタカナで「マドンナ」と看板の出てる外からは何の店か判らない所に着いた。
戸口のフィリピン男性とジェフが何か話し、上の方でベルの音とざわめきが聞こえた。 ジェフの先導で二階に上がると壁際のライトが点き、30人ほどの女性が番号札をつけて並んでいる。 「どの娘にします?」 テーブルにつくと、まるで料理の注文のようにジェフが須賀に聞いた。須賀は女性達をゆっくり見ながら11番を指名した。 「田村さんは?」 「僕はいいよ」 予想してなかったと言えば嘘になる。しかし、その頃の僕にとって女性はわずらわしい存在だった。 金で女を抱いて何が楽しい?ジェフは困ったように須賀を見た。 「田村、これも経験だよ。それに、これから遊びに行くのにお前に相手がいなかったら、俺もやりにくいじゃないか。」 「じゃ、12番」 別に選んだわけじゃない。 どうしても女性達の方を見る気になれず、須賀が11と言ったから12と続けただけだった。傍で待っていたフロアーマネージャーにジェフが指名を告げ、二人の女性がテーブルに来た。 途端に壁際のライトが消え、他の女性は奥の方に消える。
須賀が指名したサラは整った顔立ちで背が高く、メステーサとか呼ばれるスペイン系という事だった。 僕の相手のデリアは小柄で肌の色を除けばく、日本人と言っても通用するだろう。丸顔で髪が長く、濃い化粧が気になった。
「田村さん、マニラ初めて?」 「うん」 「楽しいところ、いっぱいあるよ」 「そう」 出されたウィスキーで酔った振りをして、判りやすい日本語で話し掛けてくるデリアの方をろくに見なかった。須賀とサラはすぐに意気投合したみたいで、際どいジョークに笑い転げている。 黙ってしまったデリアと僕を気にしてジェフがディスコを提案し、サラとが須賀が賛成したので僕とデリアも一緒に外へ出た。
そのディスコはフロアが広く、欧米人らしい客も多かった。すぐ須賀とサラがその中に入った。 デリアが僕を誘ったが、踊れないし、こういう雰囲気は好きじゃない。 断られてデリアはさすがに怒ったらしく、フロアで知らない男と楽しそうに踊り始めた。僕は水割りを飲みながらただ眺めるだけだった。
ディスコに1時間ほど居て、ホテルに戻った。本当は初めての経験で何が何だか判らなかったんだ。 すべてに現実感がなく、流されているだけ。周囲とのギャップに疲れ、とにかく休みたかった。
ホテルの部屋に入るとデリアはすぐテレビに見入った。シャワーを浴びて着替え、僕がベッドに入ってもデリアはテレビから離れようとはしない。部屋に入ってから、お互いに一言も喋っていなかった。僕はそのまま眠った。
夜中に目を覚ました時、横にデリアの寝顔があった。 時計を見ようとして起き上がったのだが、それでデリアも目を覚ましてしまった。 「時間を見ようとしたんだ。気にしないで寝てていいよ」 寝たのでかなり疲れが取れていた。 「田村さん、よく寝てた。ごめんなさい」 スモールランプだけしかついていなかったが、部屋の中は明るかった。カーテンを閉め忘れていたのだ。 デリアは何かを恐れるように固い表情をしていた。 「うん、疲れてたんだ。初めての旅行だから」 「怒ってない?」 「どうして?怒ることなんてないよ」 悪いのは僕だ。デリアが気を使ってくれたのに無視していた。 「デリアの事、嫌いじゃないの?」 「そんな事ない」 「よかった」 確か17歳と言っていたから僕と10歳違う。目が大きくて笑顔が愛くるしかった。 「デリアはね、余計な事だけど」 「何?」 「化粧しない方が素敵だよ」 言ってから、これってセクハラかなと思った。 「判った。田村さんの前では、もう化粧しない」 デリアが甘えるように体をすりよせ、僕も自然な形で彼女の肩を抱いた。デリアは裸だった。
僕はデリアに触っただけでそれ以上の事はしていない。朝までいろいろと話をした。デリアには日本人の血が4分の一入っていて、それで日本語を勉強したそうだ。
会社で女性に痛みつけられていた僕は、まるで違う素直なデリアとくつろいだ楽しい時間を過ごした。 デリアが金の為に付き合ってくれていると判っていたが、いい雰囲気をセックスなんかで壊したくなかった。
2.プンタバル
翌朝、須賀から1階のレストランにジェフといるから降りて来いという電話があり、僕はデリアを誘った。 規定の料金とチップは渡したが、デリアは帰ろうとしないし、僕も帰したくなかった。 ジェフに頼んで今夜もデリアを指名しようと思っていたが恥かしくてデリアには言えない。
レストランでは、ジェフと須賀が難しい顔をして話をしていた。 「サラはもう帰ったのか?」 自分がデリアと一緒なのをからかわれそうで、先に聞いた。 「あの女、部屋に入るなりチップを要求するし、寝るのに条件を出しやがる。怒ったら出ていったよ。店に文句言ってやる!」 相当頭に来ていたらしく、須賀はテーブルを叩いた。 「須賀さん、マドンナと喧嘩するつもり。私も手伝う。サラ、悪いね」 ジェフは紹介した手前、困ってるのだろうが須賀に合わせて頷いた。 ホテルに戻るまで気が合っていた須賀とサラが喧嘩別れし、ほとんど口をきかなかったデリアと僕が仲良くなっているというのも皮肉なものだ。
ジェフがタガログ語でデリアと何か話し始めた。 「私と須賀さん、マニラ動けない。田村さん、デリアとプンタバルに行きませんか?景色いいし、綺麗なコッテジあるね。」 「僕はいいけど、デリアは大丈夫なの?」 まさに渡りに舟だ。まだデリアと一緒にいられる。 「大丈夫、店にも話す。車もコッテッジも手配するね」 デリアの方を見ると、嬉しそうに頷き手を握ってきた。
ジェフが手配した車というのは、馬鹿でかいオープンカーだった。かなりの年代物のようで、赤のペンキも剥げ車体もでこぼこだったが、乗り心地は悪くない。 運転手と助手のフィリピン人が前に坐り、僕とデリアは後部座席でゆったりとドライブを楽しめた。 二人のフィリピン人は日本語が話せず、何かあるとデリアが通訳してくれたが、陽気で好感が持てた。デリアも旅行が嬉しいようで、何か見つけると一生懸命僕に説明しようとするし、化粧のない笑顔が眩しかった。
夕方頃コッテッジに着き、車を帰した。考えてみれば、女の子と二人きりで1日を過ごすなんて初めての経験だ。 のんびりと時間が経つのを楽しむ。そして、デリアを抱いた。 静かな、楽しみながらのセックス。優しく、甘く締め付けるデリアの柔らかい体。僕はデリアに酔った。
次の午前中は散歩やハンモックで遊んだりして楽しく過ごした。 迎えに来た同じオープンカーでマニラに戻ったが、遠慮がなく身体を寄せ合っている僕達を前の二人は冷やかすようにからかっていたと思う。 ホテルに戻り、デリアが今夜はどうするのか聞いてきたが、僕は勿論、一緒にいたいと答えた。 彼女は嬉しそうに微笑んで、それなら明日は空港に見送りに行くと約束してくれた。
フロントに須賀のメッセージがあり、僕達は少し休んでから指定された日本料理店に行った。 ジンベイという、ジェフが根城にしている店だそうだ。 マスターは日本人で、挨拶してから奥の須賀とジェフのいるテーブルに坐った。 「どうだった?楽しかったか?」 須賀が機嫌よさそうに聞いた。 「ああ、最高だった」 「抜け抜けと言うなぁ。こっちも早く片付いて適当に楽しんだよ」 「店の方はどうなった?」 「金は返してもらった。サラは別の店に移るそうだ」 僕はこの件でデリアの立場が悪くならないか心配したが、ジェフは大丈夫と保証した。 「話、うまくいったのデリアのおかげね。サラがレズだと教えてくれた。店、知らなくて、本人に聞いたら認めた。店、全面的に謝罪したよ」 デリアが安心させるように僕の手を握って微笑む。 「田村さん、デリア好きね。またマニラに来る?」 「うん、来るよ。必ず」 「来る前にジンベイあてにメール出すといいね。デリアに伝える。」 デリアは日本語を話せるが、字は読めない。英語は僕の方が駄目だから、これはいい方法だった。
ホテルに帰って僕はデリアの料金を精算をした。余分に持ってきたつもりだったが、気楽に使ったので残りが少なかった。店の相場分はあるが、これほど付き合ってくれたのに、チップに相当する分が少ない。 あやまってドルも含めてデリアに渡すと、デリアは首を振ってドルを返してくれた。 「私、楽しかった。これで十分。ほんとにまた来て」 「うん、デリアに会いにね」 「待ってる」 デリアは金の為だけで僕と一緒にいたんじゃないんだ。胸が熱くなった。 「今度来た時は、どこへ行こうか?」 「いい所、いっぱいあるよ。レガスピ、バギオ、セブ。ヒロの行きたい所、どこでも案内するね」 僕を呼ぶのに田村さんからヒロシさんに、そしてヒロと変わっている。 最後の夜、僕達は眠るのが惜しくて、一晩中お互いを確かめ合った。
3.再会
空港のロビーでデリアと別れ、後ろ髪を引かれるような気持ちで飛行機に乗った。 日本に帰り、通常の生活に戻ってからもデリアを忘れる事は出来ずに会いたいという気持ちは強まるばかりだった。
仕事が忙しく、そう5連休なんてとれる筈がない。夏休みにいく事にして計画に取り掛かった。 須賀は同じ国に2度行く気はないと同行を断ったが、普通のツアーに参加して、別行動をとるのが安くつくと教えてくれた。 支店の休暇ローテーションが決まると、8月上旬のツアーを申込み、ジンベイに連絡の手紙を出した。支店の女子職員は相変わらずだったが、もう気にならなくなっていた。
二回目のマニラに怯えはなかったが不安はあった。 僕にとっては忘れられない前回の旅行もデリアにとっては仕事の一部で、僕の事などもう忘れているのじゃないか。 しかし、空港のロビーには化粧をしていないデリアが待っていた。 「ヒロ、約束守ってくれた」 「会いたかったよ」 ツアーの人は驚いたかもしれないが、僕達は自然に抱き合った。
ホテルで1泊して、僕達はレガスピに飛行機で移動した。ルソン島の南端にあるその街には富士山よりも形のいい山があり、綺麗な海岸ではヤシの実をそのまま飲む事も出来た。 僕にとってデリアは最高の通訳であり、ガイドであり、そして恋人だ。そばにデリアがいれば、何も戸惑うことはなく安心して任せられた。勿論僕にはデリアを金で雇っているという気持ちはない。 彼女は、両親や一緒に住んでいる姉さん夫婦、その子供達の為に生活費が必要であり、彼女から奪った時間に対して金は払っても、彼女の気持ちは別だと信じている。
「ヒロ、結婚しないの?」 海岸で、気持ちいい風に吹かれて休んでいた時にデリアが話しかけてきた。 「うん、結婚したらデリアに会えないじゃないか」 本心だった。日本の女は嫌いだ。 「奥さんいる人、よくマニラに来るよ。奥さん可哀想」 ちょっと胸が苦しかった。デリアは日本人に抱かれるのが仕事だ。僕以外の客に抱かれていることを責めるわけにはいかない。デリアを抱いた妻帯者の話など聞きたくなかった。 「デリアは結婚したい?」 僕は話題を逸らした。 「結婚しない」 「どうして?」 「フィリピン、カトリックだから離婚出来ない。悪い男だと、いじめられる」 彼女の祖父は日本軍人だったそうだが、正式な結婚ではないそうだ。フィリピン女性と日本人男性の子供が絡んだトラブルは多い。 困っている僕の顔がおかしかったのか、デリアは笑ってキスで話しを打ち切った。
翌年の人事異動で福岡支店に転任となった。八王子と違い女子職員は素直で規律正しく、すぐ打ち解ける事が出来た。仕事は順調だったし、ほとんど3カ月毎に行くフィリピン旅行は、いつも楽しかった。
デリアと気持ちの行き違いから喧嘩をする事もあったが、すぐに仲直りしたし、ほとんどが僕のわがまま、誤解が原因だったと思う。 避暑地で有名なバギオまでバスで行ったり、セブ島めぐり、ボートに乗ったり、映画に行ったり、楽しい思い出は会う度に増えた。
ジンベイを日程の連絡先にしている関係で例の免税品は必ず持ち込んだし、自然ジェフとも親しくなった。ツアーの人を紹介したり、予定がない時には彼がかんでいる観光めぐりに便乗したりする事もあった。ジェフは大学を出ており、家柄もいいらしいが、それでも適当な仕事がないらしい。
「ジンベイはあまり流行ってないみたいだね」 路地に入って判りにくい欠点もあるが、いつ行っても客が居ない。これで商売になるのか、他人事ながら気になった。 「大きい日本料理の店増えた。マスター、ラーメン屋か焼き鳥屋にしようかって言ってたよ」 その、近くの大きな日本料理店にデリアと行った事がある。味でも値段でも勝負にならない。 「大丈夫、店大変でも、田村さんの手紙、デリアに伝えるね」 僕の心配を見透かしたようにジェフは笑った。
デリアへの想いは変わらないが、職場での交流も面白かった。八王子で陥っていた女性恐怖症がデリアのおかげで解消し、福岡支店では苦手だった女の子とのカラオケやスナックにも馴染んだ。中でも仕事の補佐をしてくれる中島佳子は、僕より5歳下でいつも気を使ってくれ、一緒にドライブや映画を楽しむようになった。
佳子を感じがいいとは思うが、恋愛感情とは違っていた。気の合う女友達と言ったら嘘になるだろうか? 佳子との結婚を考えなかったわけではない。佳子となら平凡でも落ち着いた家庭を作れるだろうし、両親や上司も祝福してくれるだろう。 僕も30歳が目の前になると、取り残されたような結婚への焦りがあった。 本社での研修を利用して入社10年目の同期会が開かれ、終ってから須賀とスナックで飲んだ。 「俺も年貢を納めるよ」 須賀が照れたようにグラスを頭に押し付けた。 「結婚するのか?」 「ああ、見合い結婚だ。家の方がうるさくてな」 同期でも独身は少なくなり、女嫌いの僕と遊び人の須賀のどちらが先に結婚するか賭けられていたが、すでに結果は出ていたわけだ。 「見合いでも、気に入ったから結婚するんだろう?」 「ま、妥協できるという事さ。お前はまだマニラに行ってのか?」 「うん、行ってる」 須賀に嘘をいう訳には行かない。 「好きな女の子でも出来たか?」 「デリアといつも会ってる」 「デリア、あの子とまだ続いてるのか?まさか本気になっていないだろうな」 まるで責めるような言い方に僕は抵抗を感じた。 「まずいか?」 「遊びの区別はつけろよ。たとえば結婚して彼女が日本で生活出来るか?社内での付き合いが出来るか?お前の家の人が認めるか?国際化って言っても会社ってそういうものだし、うまくいく筈がない」 それは、何度も自分で考えた事だ。 「わかっている」 「たとえば、お前が会社をやめてマニラで結婚するとする。生活出来ると思うか?日本人だからなんて感覚でやっていけるほど甘くはないぜ」 「言われなくても判ってるって」 こいつなら判ってくれるかもしれないと思ったのだが、意に反した。 「お前も、そろそろ旅行は卒業しろよ。もう30なんだから」 最後に、須賀は自分に言い聞かせるように呟いた。もしかしたら、須賀も僕と同じように悩み、それで見合いをしたのかもしれない。
マニラのデリアと佳子のどちらかを選択するとすれば、佳子になるのは判っている。でも、どちらかに決めないといけないのだろうか?佳子と付き合いながら、マニラではデリアと愛し合うというのは間違っているのだろうか? 決断がつかなかった。
4.事件
機内で話しをした医者の連中を連れて、ジンベイに向かった。ツアーにとっては迷惑だろうが、ジェフに客を紹介するのは世話になっている恩返しになる。
「大麻、安く手に入るね。女の子、選んでいる時に持ってくるよ」 「若い子がいい。選べるんだろう?」 「気に入る子が見つかるまで、選んでいいよ。店も何軒もある」 ジェフと医者達が話しているのを聞きながら、僕とデリアは顔を見合わせて笑った。 大麻は僕も吸って、デリアと大喧嘩をした。彼女は僕を馬鹿だと罵り、僕も文句を言われる筋合いはないとやりあった。 ほろ酔い気分で身体が浮く感じは面白かったが、結局は二度と吸わないと彼女に誓わされた。
「あれ吸うと、頭が馬鹿になる。馬鹿になる事をするのは本当の馬鹿!」 デリアがそう言うからには何かそういう事があったのだろう。それからは吸っていない。
「今度は何処に行く?」 「またプンタバルに行きたいな。今度は泳ごうよ」 「判った、明日、家から着替えと水着なんか持ってくる」 僕はデリアの耳に水着なしで泳ごうと小声で囁き、顔を真っ赤にしてデリアが頷いた。
食事が終わると、ジェフと医者は出て行き、僕とデリアはホテルに戻った。狭いバスでプンタバルの練習をして、ベッドの中で泳ぎ回る。デリアと二人だと、他の事はすべて頭から消えれしまう。
翌朝、僕たちは電話で起された。ベッドで裸のまま抱き合って眠っていただけに気分が悪かったが、昨日の医者の一人からだった。
「金を盗まれた。女は二人ともここにいる。すぐ来てくれないか?」 「二人?」 「詳しい事はこっちで話すから」
僕とデリアが着替えて斎藤さんの部屋に行くと、医者達数人に囲まれて二人の女性が片言の英語でさかんに文句を言っていた。 話を聞くと、斎藤さんはズボンの隠しポケットに千ドル以上入れていたそうだが、それが朝になって無くなっていたそうだ。女を連れて部屋に戻ってから確認しているから、犯人は二人の女のどっちかだと言う。
「ジェフは?」 「連絡しようとしたが、捕まらない。警察に言ったほうがいいかな?」 僕は困ってデリアを見た。デリアは考えてから首を振る。 「おそらく、犯人、この子達。でも、警察はよくない」 「どうして?」 「警官、日本人より女の子に甘いね。捕まえると裁判になる。斎藤さん、マニラの警察から呼び出されてまたマニラに来れるか?来れないと女の子達、無罪になる。また、警察も手続きで斎藤さんにいろいろと要求する。千ドルより金、かかるよ」 女の子達は日本語が判らないらしい。デリアに向かってタガログ語でさかんに何かを訴えているがデリアは無視していた。
「大麻の事も警察、ゆする材料にするね。ホテルもいい顔しない」 斎藤さんは肩を落としてベッドに座り込んだ。 「じゃ、泣き寝入りかい?」 「外に出ていて。ヒロも。私だけでこの子達と話す」
斎藤さんや他の連中も不満そうだったが、僕が説得して部屋にデリアと女の子だけ残した。僕の部屋に移ってから斎藤さんはデリアも同じ穴の狢じゃないかと食って掛かってきた。 「デリアと僕は3年の付き合いです。その間に、タクシーの運転手にメーターをごまかされそうになったり、いろんな所でぼられそうになった事がありましたが、すべてデリアが立ち向かってくれました。デリアは嘘を言いませんよ」 「でも、フィリピンは信用出来ないからなぁ・・」
じゃ、来なければいいという言葉を僕は飲み込んだ。日本が戦争でフィリピンにどれだけ酷い事をしたか。他のアジア諸国でも傷跡は深いが、日本がフィリピンに特に残酷だったのには理由がある。
精神主義、天皇至上主義の日本にとって、スペイン支配からアメリカ支配に変わり、カトリックでアメリカと同じ物質主義のフィリピンは堕落した国に定義された。 やりたい放題の日本軍人、その中にデリアの祖父もいたのだろう。自分が遊びで犯したフィリピン女性に子供が出来たと知らずに。 今は、戦後に堕落した国の日本人が再びやりたい放題をしている。
ドアが開いてデリアが入ってきた。斎藤さんに数枚のドル札を渡して、僕の隣に腰掛けた。 「二人、帰した。店に訴えると言ったら、諦めて白状したけど・・斎藤さん、二人に酷い事したから盗んだと言ってたわ」 何かを思い出したらしく、斎藤さんは顔を赤らめて部屋を出て行った。
5、別れ 夜遅くプンタバルのコテッジに到着し、ふざけあいながらのセックスの後、寝付かれずに僕たちは話をしていた。 「デリアは日本に来たくないの?」 「日本、怖い。勧められてるけど、行きたくない」 「そか、勧められてるってどんな仕事?」 「ダンサー、店に出るね。でも、本当は今と同じ仕事」 日本でデリアと会い一緒にドライブしてホテルに泊まる。それは想像しただけで胸が躍る。しかし日本で他の男にも抱かれるかと思うと無性に腹が立った。
「僕ね、結婚するかもしれない」 デリアは寝返りを打って、僕の首に手を回した。 「恋人いるの?どんな人?」 「いや、ただ、もうそういう年齢だから」 少しは厭な顔をするかと期待していたが、デリアの笑顔は変わらない。そのままキスをねだり、僕はデリアの胸に手をやった。 「結婚したら、もうマニラに来ない?」 「うん、無理だろうな」 「そうね、奥さん大事にしないと」 僕が30になるという事は、デリアは20歳だ。最初の頃と比べると大人びた感じになっている。ただ、律義に約束を守って化粧は、まったくしていない。 「私たちフィリピンは自殺しない、知ってた?」 デリアは僕を下にして乗ってきた。 「いや、やっぱりカトリックだから?」 「それもある。楽天的なの。くよくよしない、悩まない。だから、自殺しない」 指で僕を確かめ、自分の中に誘い入れた。ザラザラした感触が僕を締めつける。 「僕もそうなりたいな」 「日本人、すぐ悩む。だから自殺多いの。私、ヒロが結婚してマニラに来なくなっても・・」 腰を振り、綺麗な身体を見せ付けてのけぞるデリアに、僕は耐え切れず果てた。
快楽の後、すぐデリアは寝息になった。 余計な事を考えずに、いつものように旅行を楽しもう。他人から見れば馬鹿らしいかもしれないが、デリアとの事は大切な思い出になる。しかし、どうしても胸の奥のつかえがとれなかった。
空港でデリアは、また来てと言わなかった。隅で抱き合いキスをして、何も約束をしないで別れた。
福岡に戻っても胸のつかえは残った。それが何かは判っている。僕はデリアを愛しているのだ。 彼女の仕事とか、結婚相手としての条件とか関係なく、僕はデリアが好きだった。彼女と一緒の時の楽しさを、他の女性、佳子とでは味わう事が出来ないだろう。 僕はデリアを忘れる事も諦める事も出来ない。すでに、頭の中では次のマニラ旅行を考えていた。
佳子が婚約して退社した。見合いの前に相談され、何も答えない僕に失望したのだろう。ショックはなく、むしろほっとした気持ちだった。 なかなか調整がつかなかったが、やっと休暇が取れて僕はいつものようにジンベイ経由でデリアに連絡の手紙を出した。
5.終章
空港では他のツアー客に目立つし、ホテルに彼女は一人で入れない。夕方までにデリアからの連絡がなかったので、僕はジンベイに出かけた。 ジェフはいなくて、マスターにデリアの事を聞いたが、マドンナを辞めていて連絡がつかないという返事だった。 「じゃ、僕が来た事をデリアは知らないんですか?」 「マドンナも何処に行ったか判らないらしい。他のいい娘、紹介するよ」 「結構です」 下拵えで忙しそうなので、そのまま外に出た。デリアに会えなかったらマニラに来た意味がない。僕は気落ちしてホテルに戻った。
次の日、部屋にジェフが訪ねてきた。急いでデリアの事を聞いたが彼の口は重かった。 「デリア、社長さんのオンリーになったね。お腹に子供いる」 「デリアが妊娠?社長って?」 意外な話に僕は動転した。 「東京に会社あって、マニラに工場持ってる。奥さんは東京。社長はマニラにいる」 「そういう事か。つまりは現地妻だね」 「社長さん、デリアの家族も面倒みる。嫌いな仕事やめて、デリア幸せね」 事情が判った。会っても仕方がないんだ。デリアが幸せならそれでいいじゃないかと思おうとしたが、胸が痛かった。
「デリア、田村さんもうマニラに来ないと言ったね。でも、よくジンベイに来た。田村さんの連絡待ってたと思う」 デリアが前回の別れでそう思うのは当然だった。僕は自分の気持ちを書いた手紙を出すべきだったし、デリアが僕を裏切ったわけじゃない。 しばらく沈黙が続き、ジェフは出て行こうとしたが、思い直したようにまた坐って口を開いた。 「社長さんにデリア紹介したの、マスターだよ」 「何で?」 「店苦しくてマスター、社長に融資頼んでた。社長さん、店に来たデリア見て好きになったね」 僕が文句を言える立場じゃない。こうなったのも余計な事をデリアに言った僕が悪い。
「もう1度だけデリアに会えないか?」 「それ、駄目。デリア、田村さん好きだけど社長さん大切。子供出来て喜んでた」 「そうだな・・」 デリアはよく一緒に住んでいる姉さんの子供の話をした。結婚はしたくないが、子供は欲しいと言っていた。日本の最近の女性もそう言ってるよとからかったが、彼女にとって望み通りになったわけだ。 一人になりたくて、礼を言ってジェフには出ていってもらった。
景色が空疎に映る。デリアがいなくて何をすればいいのだろう? 僕は一言もデリアに好きだとか愛しているとか言っていない。 気が付いたら市内の公園を歩いていた。ここは広くて芝生も綺麗だが、デリアと歩いた事はない。 噴水の前のベンチに腰掛けていると、隣にフィリピン男性が坐った。
男はタバコの火を貸してくれと日本語で言い、ライターを渡すと火をつけてから返し、話し掛けてきた。 「私、東京に行った事ある。友達いる。ミュージシャンね。私、ギター出来る」 「そう、僕はギターは弾けない」 冷たく突き放したつもりだったが、相手はむしろ身体を近づけてくる。 「曲送ってもらったけど、日本語読めない。ローマ字にしてくれれば歌える。家、すぐ近く。お願い。」 その時の僕は気落ちして考える気力がなかった。 「時間がないんだ。悪いけど」 「時間かからない。すぐ近く」 帰ろうと立ち上がったが、肩に手を回され、僕はそのまま彼と一緒に歩くしかなかった。 彼はひっきりなしに親し気に話しをする。公園を出て、ジープを改造した小型バスのジムニーの所に行くと僕を押すようにして乗らせた。
「すぐ近くと言ったたじゃないか?」 「近くね、この方が早い。大丈夫」 大通りを走って、客を乗せる為にジムニーが止まった。 狭い車内で足を踏まれる。前の席の老婦人だった。目で外の方へと合図する。 僕は動き出した車から飛び降りた。車の方から驚いたような声が起こる。前のめりに倒れたが、まだスピードは出ていないの足をすりむいた程度だった。 周囲を気にする余裕はない。幸い帰り道は判る。しかし、情けなかった。
デリア、君がいないとこのザマだ。君がいたから何の心配もなく楽しめた。 君がずっと僕を守ってくれてたんだ。失って気づいても仕方ないじゃないか。 僕は君を愛していた。お互いに好きだったから、あんなに楽しかったんじゃないか。 君が体を売っていても、フィリピン人でも関係ない。僕は君への気持ちを第一に考えるべきだったんだ。
ほとんど部屋に閉じこもって最後の旅行は終った。読めない字の看板、言葉の通じない人々、街全体が僕を拒否している。 胸の重しはとれたが空っぽになってしまった。空港で、僕は初めて振返らずに税関を通った。
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