「時の幻影」
        

プロローグ
 
 起きたら忘れてしまうけど、夢を見てるのが好きや。だから、いつも眠っていたい。面倒なんは、食わなきゃいけん事やな。腹に入りゃ、何でもええが。それにしても冬の夜は寒くて眠れん。百舌鳥の廃屋、まだあるやろか。歩いて1時間くらいかかるなぁ。まぁ、ええか。
 
 おい、信号、青やど!痛いやないか・・
 病院やて?俺は警察も病院も嫌いや。
 示談?何か知らんけど、ええよ。相場なんて判らん。
 3万くれるんか。それやったら、痛みがとれんでも、姉ちゃんを恨まんわ。気をつけて運転しいよ。

 さて、どないしょ。堺の木賃宿に泊まって、久し振りに風呂に入って、布団で寝て、まともな飯が食える。1カ月はゆっくり寝て暮らせるな。その後は春やからええ。何時や、まだ宿は入れてくれるかな。駅前の時計なら正確やろ。
 2004年1月14日の21時20分。明日は成人式か。違う、成人の日は、終わった筈や。1月の第2週月曜とかに変わったんだ。そうすると・・

(1)

 洋館を模ったJR音羽駅の改札を抜けると、一戸建ての高級住宅が建ち並んでいた。車窓から、懐かしい建物や風景を眺めて昔に帰った気分だったが、辿り着いたのは見知らぬ土地だ。
 風が冷たい。昼過ぎに新大阪から新幹線に乗り、博多で鈍行に乗り換えた。3万円は古着代と交通費でほとんど消え、コートのポケットには、博多駅の売店で買ったウィスキーの小瓶と小銭だけが入っている。

 『忠峰の人には、名字で私が村の人間だと判るわ』
 『別にいいじゃないか』
 『見えない壁があるの。高志は博多だから気にしないけど』

 駅前の案内板は忠峰市音羽何丁目という表示で、音羽村の名前はなかった。村は川沿いにあったから、ここは山を切り崩して宅地開発したのだろう。駅がどの辺りになるのか判らないが、忠峰駅からバスで戻るより近い筈だ。俺は通りを越え、正面のレンガで区切られた歩道を進んだ。

 『私と違って、妹は成績がいいの。東京に出てスチュワーデスになるつもりよ』
 『綾子は?』
 『両親とか、家の事があるから離れられない』
 『難しいな』
 『ええ・・でも先の事はどうなるか判らないわ』
 
 10分ほど歩くと高台の切れ目になり、道が下り坂になって視界が広がる。高速道路や橋、新しい建物などは記憶にないが、筑後川が平野を横断していた。ただ、音羽村と川向こうの忠峰市を結んでいた音羽橋が見当たらない。

 『前はね、橋がなくて渡し舟だったの』
 『渡し舟か、面白そうだな』
 『村の人しか使わなかったわ。忠峰の人が村に来る事って、ほとんどなかったから』

 下り坂の道は、筑後川沿いで新しい橋の方に曲がっていた。道を離れ、土手から河原を見おろすと、駐車場のある公園になっている。夕刻で冷え込んでいるせいか、人の姿は見えなかった。駐車場に降りる道は遠回りだ。土手の草むらを降りようとして、勾配に足を取られ転がって腰を打った。公園のベンチに横たわり、ポケットからウィスキーを出して飲む。体が冷えていたし、酔いたかった。

 『遊びじゃないわよね』
 『俺の気持ちは判っているだろう?』
 『信じているけど・・でも怖い』
 『綾子の事ばかり考えている』
 『高志・・』

 小粒の雪が顔に当たって目が覚めた。住宅街や川向こうの建物の灯りで、夜の暗さを感じない。俺はベンチから起き上がり、駐車場と反対側に歩いた。道から見た橋の右側に鉄橋はなかったから、建物で視界が遮られた左側だ。河原が切れ、真四角の窪みが縦横に並ぶコンクリートの斜面を過ぎると、住宅街の灯りが見えなくなった。

 『私達、これからどうなるの?』
 『愛し合っているから、何があっても乗越えられるさ』
 『そうね。それに今は幸せだわ』

 音羽橋があった。段差のある土手を上がる気はしない。川はこの先で左側に大きく曲がる。草でズボンは濡れ、石を踏みながら歩いて足が痛んだ。草も生えていない殺風景な場所。見覚えのある茶色のセーターに白のスカートで、綾子は土の上に膝を抱いて座っていた。

 「高志?」
  夢の中で聞くのと同じ、懐かしい声が俺の名を呼ぶ。
 「うん」
 俺は綾子の横に座った。
 「思い出を数えに来たの?」
 「そうかもしれない」
 「無駄よ、時間は戻らないわ」
 「判っている」
 雪は降り続いていた。ポケットのウィスキーを探したが、ベンチに忘れてきたらしい。
 「だったら、どうして?」
 「時間が止まっていたからさ」
 そして、これからも動かない時間。
 「高志は幾つ?」
 「四十だよ」
 「そう・・私は二十歳のまま」
 綾子は立ち上がり、俺に背を向けた。

(2)

 もし何もなければ、人生はどう変っていただろう。綾子と結婚して子供に囲まれ、さっきの高級住宅とまではいかなくても平凡な家庭を築いていたかもしれない。
 大学生になって、デパートのバイトで店員の綾子と知り合った。最初は台車で彼女の売り場に商品を運んだ時に挨拶する程度だったが、たまたま昼休みに一人で食事していた綾子に話しかけて親しくなり、休憩時間に待ち合わせるようになった。

 「福岡本店より忠峰支店の方が通勤は楽だろう」
 「こっちの方が気楽でいいの」
 そう言いながらも見習が取れたばかりで、まだ周囲に馴染んでいないような硬さがあった。バイトの最終日に交際を申し込んだが、彼女の歯切れは悪かった。

 「両親はね、結婚前の男女交際を認めないの」
 「そうか・・」
 「それに、休みは家の用事が多いから、会える時って少ないと思うわ」
 俺の家は博多だが、通っている大学は小倉で音羽とは方向が違う。夏休みが終われば平日は授業があるし、デパートの休みは水曜とローテーションだ。
 「それでもよければ・・」
 
 俺たちの不器用な付き合いが始まる。会う回数と時間は少なくても、二人の仲は深まった。冬休みのバイトの頃は抱き合ってキスをするようになったが、最後の一線は越えていなかった。二人とも未経験だったし、踏み出す勇気がなかった。俺は今までのバイト料で念願のバイクを買い、綾子にツーリングの約束を求めた。
 「15日はどうかしら?」
 「俺は成人式に出ないけど、綾子は仕事じゃないのか?」
「式に出るからと言えば休みは貰えるの。家には仕事で成人式に出られない事にするわ」

 当日は朝から雪が断続的に降っていたが、忠峰の駅で待ち合わせて予定通りにバイクで阿蘇の方を走った。スピードと知らない土地での開放感が、もう大人だから、愛し合っているからと理由をつけながら俺たちをモーテルに入らせた。初めて見る綾子の体は綺麗で、夢のような時間が過ぎた。

 熊本のモーテルを出たのは夕刻で、高速を飛ばせば十分に間に合う筈だった。九州自動車道は雪で乗り入れ禁止になり、一般道を走ったが渋滞でなかなか進まない。忠峰市には予定より2時間ほど遅れ、9時頃に着いた。

 「雪でバスが動かないみたい」
 「村の近くまで送っていくよ」
 音羽橋を渡って土手沿いに走ったが、雪で視界が悪く道が濡れていた。
 「ネコ!」
 カーブでヘッドライトに黒い物が映り、綾子が叫んだ。ブレーキを踏んだのかハンドルを切ったのか憶えていない。スリップしてバイクは宙を飛んだ。俺は背中を強く打って気を失い、綾子は頭から落ちて首の骨を折った。

(3)
 闇の中に、綾子の後ろ姿だけが浮かんでいる。他は何も見えず、何も聞こえない。
 新聞で、成人の日の暴走と大きく報道されたらしい。忠峰の病院で警察の取調べを受け、打撲と骨折で3ヶ月入院した。退院後に音羽村に綾子の家を訪ねたが、綾子の妹に門前払いされて両親には会えなかった。
 大学の後期試験は受けられなかったが、それまでの単位で何とか進級出来て元の生活に戻った。
 
 『成人の日に、ホテル帰りのバイク事故で相手の女を死なせた奴だよ』
 『その女さぁ、デパートガールで会社に嘘をついて休暇を取ったらしい』
 『免許取り立てでね、夜の雪道を走れば事故るさ』
 『大学の恥だよな。家族はどう思っているんだろう?』
 多重人格や精神分裂症がどういうものか知らない。誰もが自分の噂をしているように思えた。普通になるには、他の連中と同じにすればいい。俺は、綾子と事故を忘れようとした。しかし、それは意識的に心の奥に閉じ込めただけで、消えるわけはなかった。

 「それが高志の止まった時間ね」
 「前に綾子は、村と市で見えない壁があると言った」
 「憶えているわ」
 「俺は、自分を見えない壁で包んでしまったんだ。普通の人間を演じながら、周囲と気持ちが触れ合わない。心を開かないとか、殻に閉じこもっていると言われたが、本当の感情は胸の奥の俺が持っていた。もう一人の俺は、夢の中だけに出てくる。だから、寝ている時間が好きだった」

 大学を卒業して名古屋の繊維会社に就職した。覇気がないと言われて査定は良くなかったが、上司の指示通りに仕事をして、同僚と適当に遊ぶ普通の生活だった。周囲に合わせるのが俺のやり方だったから。

 「15年間勤めた会社が倒産した」
 「結婚は?」
 「縁がなくてね。両親は家を売り払って東京の兄と同居しているから、博多に戻っても仕方がない。社宅を追い出され、安いワンルームマンションを借りて仕事を探した」
 
 就職難で面接を受けても落とされ続け、蓄えが尽きてカードローンに手を出した。雪だるま式に膨らみ、返済に追われる。取立てが兄の方にも行き、自己破産の手続きをしようとしたが、貸金業者に脅しをかけられて大阪に逃げた。

 「それで?」
 「寝る場所と食う事しか考えないホームレス稼業さ。会社勤めより俺に合ってた」

 見栄も体裁もなく、捨ててある物は拾った。幾つかの廃屋を根城にして、自動販売機の釣銭狙いとか寺の賽銭漁りをやった。一般の生活とは別世界だ。しかし、ホームレス仲間とも打ち解けられず、俺はいつも一人だった。

 「時間以外は何もない生活だとね、夢と現実の区別がつかなくなるんだ。これまでの20年が夢で、綾子と愛し合った時間がすべてに思える」
 綾子が振り向いて、俺を見つめた。
 「20年目の命日の今日、ここに来れば綾子に会えると思った。根拠はなかったが、そう信じた。そして、会えた」
 「死んで存在しないのに会える訳がないわ。私は高志の中の私」
 「思う人の心の中で生きているってことか?」
 「違う、高志が勝手に作っているだけ」
 俺は立ち上がって、綾子と向かい合った。
 「今も夢の中か」
 「夢を見るのは生きている証拠よ」
 綾子が歩き、俺も後に続いた。
 
 「夢もいろいろだ。事故で綾子が死に、俺も死にかけた。死への恐怖が、俺の夢に刻み込まれている」
 俺が本当に歩いているのなら、川の中に入ってしまうかもしれない。寝て夢を見ているなら、雪の中での凍死か。仲間で餓死や凍死は多いし、住民に殺された奴もいる。どんな形でも、人は必ず死ぬんだ。
 「恐怖を感じずに死んだ私は幸福ね」
 「今は怖くないよ」
 「死んだら何もないわ。過去も、現在も、未来も。私が生きていた20年間の全てが消えている」
 「俺も死ねば40年間が消える」
 「それでいいの?」
 「綾子と一緒だから怖くない」
 「一緒じゃないわ、私はいないの」
 あれから惰性で生きてきたんだ。本来なら、20年前に綾子と死んでいたのだから。

 「そろそろか」
 綾子の姿が揺らいだ。目で見ている筈がないから意識が薄れ始めている。夢の終わりの先に何があるのか、いや何もない世界。
 「高志・・」
 薄れながら、綾子の服が消えていく。一度だけになったモーテルでの姿。抱きたいが、俺の体は動かない。綾子が近づいて、俺の体を抱き締めた。
 熱くて柔らかく、気持ちのいい感触。このまま溶けるようにすべてが終わるのなら、死は今まで生きていた時間の中で経験しなかった、優しく甘美な一瞬だ・・

 エピローグ

 「光・・」
 白い天井が見えた。心地よいベッドの中だ。落ち着いた感じの洋室で、窓際の椅子から女性が俺を見ている。起き上がろうとして、自分が裸なのに気づいた。
 「大丈夫?」
 女性が心配そうな顔でベッドに近づいてきた。
 「ここは?」
 「私の家。服は洗濯して横に置いているわ」
 女性の顔に見覚えはあったが、誰か思い出せない。
 「君は?」
 「憶えていないでしょうね。妹の響子よ」
 「あ・・」
 退院してから綾子の家に謝罪に行った時に、きつい顔で中に入れなかった少女の面影がある。それに、綾子と顔の感じが似ていた。
 「お粥を作ったから持ってくるわね。すぐだから、着替えて待ってて」
 彼女がドアから出て行き、俺は傍にあった自分の服を身につけた。

 食事の後、言われるままに風呂に入り、居間に行くと座敷に案内された。
 「姉さんと両親です」
 鴨居に三人の遺影が並んでいる。俺は仏壇の位牌に手を合わせた。
 「母は去年、父は5年前に亡くなったわ」
 「ずっと、俺を恨んでいただろうね」
 「私もよ」
 一家は村の恥と言われて孤立し、彼女は高校を中退して家の畑仕事を手伝った。ふしだらな姉がいたという事で結婚の話もなく、両親とひっそり暮らしていたが、音羽開発計画で事情が変わった。
 「九州自動車道のインターチェンジが近くに出来て、村の土地は工業団地に買い占められたの。それに音羽山は村の共同財産だったから、村の住民に配分があったわ。貧乏な百姓村と馬鹿にされていた音羽村の住民が、全員お金持ちになったわけ。私達は開発区の住宅を買って、姉さんのいる音羽に残ったの」
 外の景色で、この家が高級住宅街にあるのは判っていた。もし綾子が生きていれば、豊かな生活があったわけだ。
 「俺は、綾子が事故で死んだ河原にいたと思うが、その後どうなったのか教えてくれないか?」
 「見てたの」
 「え?」
 意味が判らなかった。
 「姉さんと貴方の話、ずっと聞いていたわ」
 「あそこにいたのか?」
 河原の綾子は、現実じゃなく俺の夢の筈だ。
 「違うの、何だか急に貴方と姉さんが頭の中に浮かんできて・・車であの場所に行ったら貴方が眠っていた。姉さんは貴方を助けたかったんだと思う。貴方は目を覚まさなかったけど、起して肩を貸したら歩いたわ」
 「そうか・・」
 あの時、綾子は川の方じゃなく土手の方に俺を導いたんだ。俺は鴨居の上にある綾子の写真を眺めた。死ねば何も残らないと言った綾子が、彼女に俺の事を教えて助けさせた。
 「家に入って、冷え切っていたからベッドに寝かせたの」
 夢の中の感触を思い出した。
 「もしかして、俺を温めてくれた?」
 彼女は顔を赤らめ、視線を逸らした。現実と夢の区別はつかないが、繋がっている。それ以上は聞けなかった。夢がいつも違うように、現実も数多くあるのだろう。二日前は堺を彷徨っていた俺が、昨日は綾子と会い、今日は高級住宅の一室にいる。明日の現実がどうなるか判らないが、これからも綾子の夢を見れるだろうか。
 
 「あの、これからどうするの?」
 気まずい沈黙の後、彼女が俺に聞いた。
 「考えてない。君に助けてもらった礼を言うべきかも迷っているんだ」
 夢から覚めれば、変わらぬ現実がある。生きることには疲れたが、死ぬ機会を逃した。 
 「もし姉さんが生きていれば、配当を受け取る権利があったの」
 「そうだろうな。綾子は何も知らずに死んだ」
 「でも、貴方と愛し合っていたのね」
 「ああ、それだけは確かだった」
 出会って1年足らずの恋。今の俺に信じられるのは綾子の愛だけだ。だが、生と死、20年の歳月が二人を隔てている。
 「姉さんの為に・・貴方の負債は処理してあげる」
 「同じだよ。逃げ回る必要はなくなるが、先には何もない。繰り返すだけだ」
 「それなら、新しく始めればいいわ」
 「どういう意味だ?」
 彼女は、また顔を赤らめて視線を逸らした。
 「あのね・・姉さんは私の為に貴方を見せたのかもしれない」
 「どうして?」
 「私と両親も、見えない壁に包まれていた。母が死んで今は私一人。高志さんとなら壁を壊せると思うの」
 俺は目の前の彼女に惹かれていた。綾子は、自分の死で人生を狂わせた二人を結びつけようとしたのだろうか。
 「しかし、俺は君の家族を苦しめた張本人だよ」
 「いいの、高志さんも苦しんでいた事が判ったから・・それに・・」
 躊躇うように言葉を切って、彼女は俺を正面から見つめた。
 「もう高志さんとは他人じゃないし・・」
 「響子・・」
 俺は響子を引き寄せて抱き締めた。死ぬのは自然に任せればいい。愛する相手がいれば、生きる意味も違ってくるだろう。たとえ、どれだけ苦しくとも。
 「姉さんが・・笑ってる」
 響子に言われて綾子の写真を見上げると、先ほどは気づかなかった笑窪があった。

   終