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「初恋」
小田急線の柿生駅から歩いて10分のところに僕の住むアパートがある。町田駅よりも新宿寄りなのに神奈川県で、新興住宅が立ち並ぶ隣の新百合ヶ丘駅と違い、閑散とした田舎町の雰囲気が残っていた。 僕が勤めている商事会社は町田にあるので、通勤は都心と逆方向になるから楽だった。仕事が終わって1DKの部屋に着くまでの30分間が嫌いじゃない。それは何も考えなくていい一人だけの時間だから。学生時代は、ずっと一人だった。あの頃に戻りたいとは絶対に思わないが、一人の時間には、本当の自分でいられる安らぎがある。
いつもなら駅からのんびりとコンビニや古本屋を覗いたりして帰るのだが、仕事が長引いて今夜は急ぎ足になった。部屋に入り、着替えもせずにパソコンの電源を入れてネットに繋ぐ。
HOST NAME?
*−−メールが49通届いています(未読分6通)−−
他の5通を無視して、アンのメールを開いた。
1 #アン PXD04411 96/07/16 19:34
題名:あなたのギルへ
9時にアベックモード。遅刻したらウィルスを口移し(*・( )チュ
わたしのアンより
金曜の夜の定例チャット。それが僕にとってどれだけ貴重な時間か、誰も知らない。おそらくこのメールを打った「アン」というハンドルの女性も。 「ギル」は僕がネットで使っているハンドルネーム。由来を聞かれると普段は「ジギルとハイド」のジギルからとったと答えている。ネットはバーチャルで現実とは違うというのが僕の持論だ。 「アン」が「あなたのギル」「わたしのアン」という表現をするのは実生活の「あなた」と「わたし」とネットの「ギル」「アン」は別だという僕の考えに対する反発だった。「ギル」と「アン」がネットの恋人でも「あなた」である僕と「わたし」である彼女は全く別の存在だ。無理に結びつければ「ギル」と「アン」の関係も終わってしまう。
アンとの出会いは1年ほど前だ。翌日が休みなので明け方近くまでチャットをしていたが、仲間が先に落ちて一人になった時に彼女がチャットルームに入ってきた。
(アン)よろしいでしょうか
(ギル)こんばんわ(^。^)よろしくね>アン (アン)すてきですね、えがおが
(ギル)初心者なの? (アン)はじめてです、おしえてください
チャットだと言葉には出ていないのに相手の思いが見えたり、気持が通じたりする。初心者指導でチャットのコマンドや楽しみ方を教えながら、僕は彼女が孤独で安らぎを求めているのを感じた。
(ギル)何も言わないで、僕も聞かないから>アン (アン)え?
(ギル)ここではアンも僕も別の自分なんだ>アン (アン)私が私じゃいけないの?
(ギル)嫌な事は忘れて自由な自分になると楽だよ>アン (アン)自由な自分・・
(ギル)ここでは年齢も地位も関係ない。悩みやコンプレックスは捨てるんだ>アン
5年前まで僕は対人恐怖症に陥っていた。パソコンが出来ないと就職に不利と言われて大学3年でノートを買ったが、教えてくれる友人なんていないからマニュアルやヘルプで何とか初歩をマスターし、判らない事があるとチャットで訊いて回るようになった。 僕がたまたま入ったチャットルームは初心者が気楽に参加できる雰囲気を大切にしており、みんなは根暗で気の弱い僕を気持ちよく仲間として迎え入れてくれた。彼らといると僕の凝り固まっていたコンプレックスは消えていた。そして僕は、冗談好きで思いやりのあるギルになれた。
(アン)私の友達になってくれる?
(ギル)ここではみんな仲間だよ>アン それからアンはルームの常連になった。
東京の商事会社に就職し、新しい環境で僕は「ギル」を意識して演じ、対人恐怖症を克服できた。誰も根暗で口下手で不器用、気の弱い駄目な男という僕のイメージを知らない。小さな会社だが、小回りが効き、新人なのにわりと重要な仕事も任されるし、周囲は真面目で明るいと評価してくれている。 東京のチャット仲間は、すぐに歓迎オフ会をしてくれた。ネットだけの世界がスムーズに現実と溶け込む。イメージと違う人も多かったが、それはそれで新しい理解が生れた。活動家の「ギル」はルームのリーダー的立場になり、東京オフでよく幹事役をするようになった。
9時にはまだ時間があったが、チャットルームへジャンプした。
− アン(PXD04411)からメッセージです− 10分早いわよ(笑)
***メッセージを送出***
その前にきてたんだろ?(笑)
− アン(PXD04411)からメッセージです− 待つ時間もすきだから・・(笑)
僕とアンはオープンから二人だけで話せるアベックモードへ移行した。
(アン)京都オフ、行って来たわ§^。^§
(ギル)楽しかった?(^^) (アン)京都の雨〜♪・・ね、水もしたたるいい女になったわ(^^ゞ
(ギル)いいじゃん、びじょ、びじょなんだから(^.^) (アン)喫茶店だけで解散、みんな、ぶすぶす言ってたわよ(ーー;)
(ギル)(笑) (アン)新宿オフは楽しかった?麻里に誘惑されたんだって?(笑)
(ギル)誰に聞いたの・・麻里はまだ高校生だよ(^_^;) (アン)年齢は関係ないわ。オフ、また私に教えてくれなかったわね(--メ)
チャットルームではみんなが仲間だし、慣れない初心者を優先させるのがルールだった。でもアンは僕にまとわりつき、ルームの雰囲気を壊しかねなかった。こういう場合、ルームから追放するか、邪魔にならないアベックモードに移動するかの選択になる。僕は後者を選んだ。 金曜は二人だけでチャットをするようになったが、彼女とのオフは避けた。だから新宿オフを教えなかったし、アンが僕を参加させようと京都オフを話題にしても無視した。
(アン)本当は、結婚してるか、恋人いるんでしょう?
(ギル)いないよ・・どうして? (アン)電話教えてくれないし、会うのを厭がってる
(ギル)チャットと現実を混同しない・・その方が長続きする (アン)嘘つき!いいわ、それなら私は現実を重視するわ
おそらく実生活で疎外感に苦しんでたアンも立ち直っている。大阪の建設会社に勤めている「アン」は僕に心を許して仕事のことや友達のこと、故郷のことなども気軽に話すようになっていた。「ギル」は僕の生活に入り込んでいるが、「アン」は彼女自身に戻ろうとしている。
(アン)明日、小倉に帰るわ
(ギル)そう、しばらくはチャットが出来ないのか (アン)見合いするの・・私、もう27よ
(ギル)知ってる、同じ年齢だから (アン)才能のない女にとって、幸せは結婚なのかしら
(ギル)アンには才能があるよ、自分を信じて (アン)ううん、はっきり見えてるの、自分の限界が
(ギル)だから見合いして結婚? (アン)お互いに気に入ればの話だけど
(ギル)アンを振る男なんていないさ アンとのチャットではボードを打つ指が踊るように動く。しかし今は完全にリズムが狂っていた。
(アン)どうしたの?黙ってしまって・・
(ギル)最初に会った時の事を思い出していた。 (アン)ギルの意味を聞いたら君の恋人、ギルバートだよって、気障!
(ギル)ははは(笑)
僕は田舎の中学から一人だけ小倉高校に合格した。周囲は中学校からの結束が強く、親しい友達が出来なくて孤立していた。その寂しさの反動もあり、明るく勉強も出来る同級生の坂松亜希子に強く惹かれるようになった。 2年の時に文化祭で亜希子は英語劇「赤毛のアン」のアンを演じ、僕は彼女の輝きに圧倒された。 亜希子がアンなら、僕は恋人のギルバートになりたい。自分なりに亜希子に釣り合う男になろうとして努力した。3年の時にクラスが別になり、焦った僕は亜希子に交際を求める手紙を出した。
(アン)結婚するなら・・好きな人としたい
(ギル)いるの?好きな人 (アン)鈍感!!
(ギル)チャットと現実は違う (アン)私とあなた、同じ筈よ
(ギル)違うよ・・本当の僕はギルじゃない (アン)じゃ、本当のあなたを知りたい
(ギル)平凡な、だらしない男さ
亜希子と噂のあった湯葉に呼び出され、彼女が迷惑していると言われた。劣等生の僕が人気者の亜希子にラブレターを出して振られた話は学校中に広まり、馬鹿にされて極度の人間不信に陥った。志望校を福岡から熊本に変え、大学では高校時代を知っている者はいなかったが、僕は人との付き合いが臆病になり、閉じこもってしまった。
アン)私も、臆病なつまらない女・・似合いかも(笑)
(ギル)君には僕なんかより、ずっと相応しい奴が現れるさ (アン)そうね、小倉では、もうチャットは出来ないし・・お別れね
(ギル)つらいけど・・アンの幸せを祈ってるよ (アン)ばかあーー!、ギルのばかあ・・・
(ギル)チャットを忘れて現実だけ見つめるんだ
亜希子が「アン」のハンドルをつけたのは文化祭での思い出からだろう。アベックモードで親しくなり、話から「アン」が亜希子だと知ったときは信じられなかった。僕はネットの中でアンの恋人ギルになるという高校時代の夢を叶える事が出来た。でも「アン」が亜希子に戻るのなら、もう僕の役割はない。
(アン)見合いの相手は湯葉さんなの
(ギル)あれ?湯葉はもう
しまった、罠だ。同窓会の案内状で湯葉と亜希子の親友だった恵子が学生結婚をしたことは知っていた。経緯は判らないが、チャットで亜希子が話したことはない。
(アン)誰なの?・・ギル
(ギル)僕は僕だよ (アン)誰なの!!誰なの!!!誰なの!!!!!!!!!!!!!!
(ギル)思い違いだよ、ごめん (アン)小倉のケーキ屋、あなたは喫茶室を知ってた
(ギル)だから・・ただの思いこみだよ (アン)教えて・・貴方は誰?????????
素顔を隠すチャット恋愛に出口はない。「アン」と「ギル」がいつか別れるのは決まり事だ。それが今であっても仕方がないと割り切れるが、「僕」と「亜希子」の現実が絡むと汚れてしまう。「アン」を失うつらさを「亜希子」には隠していたかった。
(ギル)覚えてないよ、高野健司、高校で同級だった時がある (アン)高野さん・・高校の時、手紙をくれた・・
アンが亜希子に、僕が健司に戻れば苦い過去が蘇る。忘れようと努力した相手が、初めて僕を見つめようとしている。だが、僕は目をそらすしかなかった。大阪と東京の距離は割り切るのに十分と思っていたが、通信ではモニターまでの至近距離でしかない。そして、ギルではない僕とアンではない亜希子の間では住む世界自体が違う。全ては終ったんだ。
(アン)だから、だから私と会いたくなかったのね
(ギル)会えば、気まずい思いをするだけだから (アン)私、ひどいことを・・困って、友達に相談したら・・
(ギル)いいんだ、忘れてくれ (アン)でも、私の知ってた高野さんとギルは違いすぎる
(ギル)いつも言ってるだろ?現実とチャットは違うんだ (アン)どうして私に親切だったの?恨んでるのに
(ギル)恨んでなんかいない、初恋の相手の君と遊べて嬉しかったよ (アン)待って・・気持ちがまとまらない!
(ギル)幸せに (アン)ギル!逃げないで・・私、泣いている・・私は
リセットを押した。もう亜希子はチャットに現われないだろう。「ギル」の正体が僕と知って諦めもついたはずだ。ゲームオーバー。惨めな高校時代をこれ以上、思い出したくない。「アン」に出会う前から亜希子に相応しい相手のイメージとして持っていた「ギルバード」の仮面をつけ続けた。でもそれは本当の僕を知っている亜希子には通用しない。僕は逃げた。
翌日は部屋にこもった。目を閉じると高校時代の制服で亜希子が甘い声で語りかける。内容はチャットでの言葉だった。
(アン)ギルって、優しい・・ (アン)出来が悪いほうが可愛いでしょう?せ・ん・せ・い(笑) (アン)明日はグラタンに挑戦・・食べに来る?(笑)
ログを見なくても全ての会話が思い出せる。もう「アン」とチャットすることはない。現実とチャットの世界は違う。お互いが相手の実際を認識した時にチャットの魔法は解ける。混同させていたのは僕の方だ。結局、僕は現実とチャットで同じ相手に失恋してしまった。
電話が鳴り、気だるい気持ちで受話器をとった。
「ギル?私、アンよ」 「どうして、この番号が・・」 「みんなにメールで聞いたの。ジョーが教えてくれたわ」 「一緒にオフの幹事をしたから・・でも、どうして?」 「今、柿生駅前のミスドにいるの」 「アン・・」 「あなたが来るまで待つわ。一晩でも・・」 「ギルを?」 「あなたを」
手が震える。想像した通りの、甘い声だった。
「すぐ、行くよ。5分で」 「私、あの頃とは変わったわよ。ギルに判るかしら」 「判るさ・・アンなら一目で」 「ギルが見たいと言ってたブラウンのワンピース。初めてのギルとのオフだから」 「二人だけはオフとは言わない、デートだよ」 「言うと思ったわ。まだ見てないなら来る前にメールを読んでね」
急いでネットを呼び出し、アンのメールを開いた。
#亜希子
題名:私のギル=健司へ・・・愛をこめて
貴方は、私のチャットの初恋の相手です。 チャットと現実は、同じだと知ってます。
貴方のアン=亜希子より
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