「夜の訪問者」

1.招かざる客


 横浜と巨人戦の9回裏、4対3で横浜リード。二死走者なしから高橋の当たりはラッキーなポテンヒットになった。巨人の攻撃は松井、清原、江藤と続く・・
 「大変申し訳ありませんが、放送時間がきましたのでここで終わらせていただきます」
 野球が筋書きのないドラマなんて嘘だ。松井のホームランか、松井が歩いて清原のヒットか、どちらにしても明日のスポーツ欄はアバタかヤクザが飾る。見る気はないけど。 


 テレビを消してからソファに腰かけて30分間近く、私は何をしていいのか判らずにそのまま動けなかった。いつもなら布団をしいて着替えて10時に眠る。そうすれば朝は6時に目を覚ますんだけど、今夜だけはそうしてはいけない筈だ。では、どうしよう?


 ピ〜ンポ〜ン・・ピ〜ンポ〜ン
 何も思いつかず困っていた私にとって救いのチャイム、こんな夜の10時過ぎに、ワンルームマンションの5階まで訪れてくれる人がいるなんて、東京ってやっぱり都会だわ。久留米だったら、8時で商店街はみんな閉まってしまうんだもの。
 私は玄関に急ぎ、ドアを開けた。さっと雪駄だけが中に入り、腹巻によれよれスーツのおじさんがニヤリと笑ってみせる。あ、フーテンの寅さんだと嬉しかった。

 
 「あの、どなたですか?」
 「問われて名乗るもおこがましいが〜」
 「嫌ならいいです」
 「途中で止めちゃ男がすたる。スカタンの久田、業界では名の売れた男さ。自己紹介も終わったし上がらせてもらうぜ」
 雪駄を脱ぎ捨て、スカタンさんは私の横を通って部屋の奥に入りソファに胡座をかいた。私は雪駄を揃え、首を傾げた。業界って、何の業界だろう。
 ともあれ、お客さんがこんな時に来てくれるなんて、これで何をしたらいいか考えなくてすむ。


 ソファは二人用だが、スカタンさんが真中に座って占領している。私は床に正座した。
 「あの・・」
 「何でぇ、文句あるか?」
 「申し遅れましたが、大田和代と言います。コーヒーと紅茶、どちらがよろしいでしょうか?」
 そう言ってから、紅茶を切らしているのを思い出した。
 「そりゃぁ、菓子によるわな。饅頭をコーヒーってわけにゃあいかねぇ」
 「モロゾフのクッキーですから、コーヒーでよろしいですね?」
 「仕方ねぇ、俺はブラック党だから砂糖はいらねぇよ」
 スカタンさんの貧乏揺すりでソファがギシギシ鳴っていた。私はドリップでコーヒーを入れてスカタンさんの前に置いた。

 「ふむ、これはモカだねぇ、香りがいいわな。クッキーも上のナッツが効いてるね。よし、気に入った!あんたに凄い儲け話を提供するよ。礼はいらねぇ、もう俺たちは友達だぁな」
 別にお酒をたらした覚えはないが、コーヒーを啜るとスカタンさんは急に上機嫌になった。友達になってもらえるのは嬉しいが・・


 「すみませんが、金儲けに興味はありません」
 「銀行に金を預けてもスズメの涙だぜ、将来を考えたら利殖は必要だ。安心して任せなさい」
 満面の笑みで顔を寄せてくるスカタンさんをガッカリさせるのはつらい。
 「あの、私、将来はないんです」
 「夢を持たなきゃいけねえぜ、何故将来がないんだ?」
 「これから自殺するんです。だから利殖なんて必要ありません」
 スカタンさんがコーヒーを吹き出し、私の服にもかかった。どうしよう、もう洗濯をする時間がない。

 どうやらスカタンさんにとって予想外だったらしい。腕を組んで考え込み、貧乏揺すりも止まっている。
 「自殺だと2年間は死亡保険金が出ねえ。事故死の方がいいんじゃないか?」
 「会社で加入している保険は3年を経過してます」
 「保険会社は?」
 「確か、エビセン生命です。加入した時は東亡生命でしたが」
 スカタンさんは頭を抱え込んだ。
 「俺はエビセン生命の営業なんだ。あんたの名前はリストになかった」
 「団体任意加入定期保険です」
 「会社の名は?」
 「田中商事」
 業界って、保険業界だったんだ。本当に私ってついている。こんな時に専門家と会えるなんて・・
 「あれかぁ・・・担当は別だが袖擦りあうも他生の縁、事情を話してくれないか?内容によっては、しっかりと後始末してやるよ」
 溜息をつきながら、スカタンさんが聞いてきた。
 「実は・・」
 死んだ後に書類不備で支払がされないと困る。私は自殺する経緯を説明することにした。


 私は悩み抜いた。みっともない死に様は残したくないし、見知らぬ人に迷惑をかけたくない。鉄道や車の飛び込みを諦めてビルからの飛び降りを考えたが、下を歩いている人を巻き添えにしたら死んでも死にきれないし後の清掃が大変だろう。
 山奥での首吊りは早く発見されないと会社に迷惑をかける。やはり自分の部屋でひっそりと目立たなく死ぬのが一番いいと思ったのだけど・・

 この部屋は天井が低くて首吊りには向かない。よく映画で酒を飲み風呂で手首を切るというのがある。私は酒が飲めないし、浴槽で裸のまま発見されるのは恥ずかしい。服を着たままでもいいのかしら?でも、あれって痛そうだから、やっぱり厭。楽に死ぬって生きるより難しいみたい。


 結局ガス自殺しか残っていないが、問題は窓をどうするかだ。閉め切って私が死んだ後に爆発事故を起こしたら申し訳ない。隣の人はヘビースモーカーらしく、いつも廊下に吸殻が落ちている。窓を開けてガス管を咥えても気を失っただけで生き残ったら困るし・・

 「ガス管咥えるのは苦しいよ。胃の中のものが全部出ちゃうしね。吐き出し苦悶垂れ流しだもんなぁ」
 「そうなんですか?」
 「商売柄、いろんなケースを見てるよ。それで結論は?」
 「簡単な方法です。呼吸をしなければ死ぬのですから息を止めます。ガムテープを鼻と口に貼って」
 スカタンさんは呆れたように溜息をついた。
 「あんた、本当に死んでいいのかい?未練はないのか?」
 「あります、巨人が最下位になるのが見たいんです。せめてBクラスに・・」
 「今日は4対5で勝ったな。松井、清原が連続四球で江藤のサヨナラヒットだ」
 スカタンさんが話しながら腹巻から携帯を取り出し、情報をとった。見出しはアンパンマンか・・どっちみち見たくない。
 「最後の夜くらい、気分よくさせてくれればいいのに・・」
 「そもそも死に方じゃなく、死ぬ理由を聞いてんだよ。話が長くなるなら夜食でも作ってくれないか?」
 うっかりしていた。これだから気の利かない女だって嫌われるんだわ。チキンラーメンとうまかっちゃん、どちらがいいかしら?

2.一千万の罠

 私は容姿、才能に恵まれていないし地味な性格だから結婚は出来ないかもしれないけど、生きていることは好きだ。最後は老人ホームで、介護保険の元をとって暮らしたいと思っていた。
 久留米商業高校を卒業して上京し、採用された田中商事で真面目だけが取り柄と言われながら経理で8年。
 ほとんど会社とマンションの往復で会社の人と付合いで飲んだり遊んだりするのは苦手だ。後に入社した高橋主任は美人の交際家で、比較されて少しは見習った方がいいとよく言われた。


 私にだって、好きな人はいる。一年前に中途入社で経理課に配属された鈴木一郎さん。
 私より5歳年上の30歳で独身、不器用で口下手で数字に弱く間違いも多い。でも正義感が強くて経費の使い方なんかに疑問を持つと課長へ改善を進言する。相手にされないが鈴木さんは正しい。客を経費でゴルフに招待し、お返しに招待されて契約に結びつかない。結局は部長が会社の金で好きなゴルフを2回楽しんで終わるような交際費が多い。


 経理課には10人いるが、課長と高橋主任を中心によく飲み遊んでいる。私と鈴木さんは義理で誘われる事もなくなり、お互いに無口だが残業で一緒になり話す機会も多かった。ほとんど仕事の話だったが、鈴木さんの純朴さに心惹かれていた。

 不況の影響は大きく、会社が危ないという噂が流れている。コピーの一枚を惜しんで遊びは豪快にするという経費節減では仕方ないと思うが、リストラに乗り出すという話は信憑性があった。その場合には私と鈴木さんが有力候補だろう。そして課長から難しい顔で応接室に来るように言われた。


 「内部監査の時期だから高橋君に帳簿をチェックさせたのだが、1千万の欠損が発見された。伝票で調査すると、すべて君の印鑑で処理されている」
 まったく身に覚えのない寝耳に水の話だった。
 「明日、役員室で君の懲罰聴聞会が開かれる。刑事訴訟は避けられないし、1千万については保証人に請求することとなるだろう。確かご両親が保証人だな」
 「でも、私は使い込みなんてしていません!」
 現金も通帳も扱っていないのに何故疑われるのか、私は唖然とした。
 「弁解しても証拠は揃っているんだ。残念だよ、新聞にも載るだろうな、会社としても、本当は表沙汰にしたくないのだが・・」
 聞く耳持たずという感じで課長は声を落とした。
 「話は変わるが、社内任意定期保険は更新してたかい?」
 「はい、自動更新ですから。給与から引かれてます」
 保険料が年齢で違い、まだ月額500円くらいだ。毎年配当があるので止める気はない。
 「あの保険金は1千万だったね。偶然だな。関係ないが・・懲戒免職で刑務所に入って、君の人生も終わりだよ。生き恥を晒すよりは、とか考えてしまうだろうな、こういう場合」
 独り言にしては声が大きかった。


 卵入りチキンラーメンを食べ終わったスカタンさんは、私の話を鼻毛を抜きながら退屈そうに聞いていた。聞き終わるとつまらなさそうに首と肩を揺すっている。


 「つまり、その課長と高橋っていうボインが出来てて使い込み、罪をあんたになすりつけたわけだ」
 「何で判るんですか?」
 私は驚いた。
 「単純な推理さ。内部監査が入る直前に課長の指示で調査が始まりボインの指摘で欠損が判明する。あんたが犯人じゃなければ二人が怪しいに決まってるじゃないか」
 「私は一言も高橋主任の胸が大きいなんて言ってません」
 あのFカップは絶対にパットブラだ。
 「どうだい?課長とボインがグルになってあんたを陥れたと思わないか?」
 「証拠もなく人を疑うのは間違ってます」
 でも、証拠を突きつけられて疑われているのは何もしていない私だ。すると、疑ってもいいのかしら・・
 「証拠を捏造されて犯人にされてるのはあんただぜ」
 本当は疑っているんだから、ここは信念を曲げよう。
 確かに課長と高橋主任は仲がいい。仕事が出来るわけでもない高橋さんを主任に抜擢したのは課長だ。人望と統率力とあるからと課長は言っていたが、親睦の名目で遊びまわっている。


 「私はどうすればいいんですか?」
 「名前を変えるんだね」
 スカタンさんはポケットから皺くちゃの紙を出し、私の名前を書き込んだ。
 「大田和代、字画は吉だが、揃うと大凶だ。姓名は生命に通じる。問題はこの大の字だな」
 一人で納得したように何度も頷いている。
 「あの、易もやられるんですか?」
 「この商売は何でも屋でね。星占いから血液占い、黙って座ればピタリと当る。自慢じゃないが、俺の占いは確率50%を誇っているんだ」
 「凄いんですね・・」
 競馬やtotoだったらすぐに財産が作れるのかしら。いえ・・50%だと外れるのも半分・・
 「大田を太田にしたら吉になる。これであんたは長生き出来るよ」
 「でも、今夜死ぬのですから・・」
 時計を見ると1時を過ぎている。どうやら朝まで生きるのかしら。
 「太田になって生まれ変わればいいさ。放っておくと次は鈴木って奴が罠にはまるぜ」
 忘れていた。鈴木さんも私が使い込んだと思うかしら。死んだら保険金で穴埋めが出来ても、社内では私が犯人だと信じてしまうだろう。


 「俺の作戦でいけば問題は解決する。そうすると死ぬ必要はない。死なないのなら利殖は必要だ。そこでエビセン生命の新商品、えんエーン君をお勧めしよう!」
 やっとここまでという感じでスカタンさんはパンパンと自分の膝を叩いた。
 「えんエーン君?」
  頷いてスカタンさんが袋から書類とパンフレットを出してテーブルに広げる。


 「0.001%の低金利なんてのは日本だけの話、中米で最近になって独立したスカタン共和国は年利100%の高金利を誇っている」
 何故かパンフには小泉首相と握手をしているサッカー選手の写真があった。
 「それって、超インフレで危ないんじゃないですか?」
 「国債だから大丈夫なんだよ」
 「だって、アルゼンチン債も停止になってますし・・」
 経理としては、新聞くらい読んでいる。
 「生兵法は怪我の元、素人目で判断しちゃいかん。俺を信じなさい。信じる者は儲けられる」
 説得力はないが、よく考えてみると今さらどうでもいいことだった。
 「スカタン共和国の専門家って事で俺はスカタンの久田と呼ばれてるんだ。共和国の通貨はエーンで1円は1万エーンの通貨為替になる。あんたは10万円で10億エーンの契約をするんだ。これが確定複利金利100%で運用されるから10年後は187億の受け取りになる。解約も出来るが、5年を過ぎると利息は一時所得で・・えーーと・・ともかく日本円で180万近くになる計算だ」

 
 自殺した後の始末のお願いに10万円は用意していた。別に使っても構わないだろう。警察にしても消防署にしても公務員だから税金で処理するだろうし・・


 契約書に言われたとおり記入し、スカタンさんに10万円を渡した。本当は本人が所定用紙で振り込まないといけないそうだが、特例としてスカタンさんが入金するそうだ。
 「大田と太田の違いが面倒なんだが、通称という事で処理するよ。さて、これであんたは俺の大切なお客様だ。まず、あんたはこれから太田になる。その懲罰聴聞会を乗り切るには性格を変えないといけない」
 巾着に折りたたんで金を入れ、首から下げてスカタンさんは機嫌が良かった。
 「性格を変えるって・・」
 「目立ちたくないというのも自意識過剰なんだ。あんたの心に殻がある。それをとって自然体になれば人生薔薇色さ。太田和代は自信を持ってる女性だよ」
 「そんなこと言われても・・」
 「背中丸めて俯いて化粧もせずに喋らないとなりゃぁ、目立たないし軽く見られてしまう。地味と言うより逃げてるね。思い切ってイメージチェンジするんだ。」
 「どうすればいいんですか?」
 「徹夜で特訓してやるよ。朝飯はハムエッグとコーヒーにパンでいいから。この商売は何でも屋でね、メイクもカットも話し方資格もあるんだ。再就職に有利だからね。さて、まずはその髪だが・・」


 私はスカタンさんを信じたわけではない。しかし、やっぱり生きていたかった。藁にもすがる思いということだろう。彼のいうままにに髪をいじり、化粧を変え、喋り方の練習をした。

3.懲罰聴聞会

 社員数約千人の田中商事は貴金属加工の分野でトップクラスの実績を誇っている。駅の近くにある本社ビルの最上階は役員専用フロアーで一般社員は特別な事がなければ入れない。そして、私はその特別な事情でフロアーの絨毯を踏みしめ、役員会議室に入った。


「経理課一般職、太田和代です。お呼びとのことで参りました」
 コの字に置かれたテーブルの中央に椅子がある。私は一礼して座った。


 社長、専務、常務、取締役と顔だけは知っている役員が正面に並び、横には経理部長、総務部長が座っている。反対側には課長が苦虫を潰した表情で、高橋さんが怯えたようにこちらを見ていた。社内で噂は広まっているらしく、今日は誰もが私を避けたが気にならない。私は大田ではなく太田和代なのだ。


 最初に口を開いたのは社長の横に座っている総務経理統括担当の専務だった。
 「大田君、君の経歴は読ませてもらった。真面目で模範的な君が何故こういう事件を起こしたのか事情を説明してもらいたい」
 私は専務の目を見つめた。
 「憶えがありません。無実です」
 「課長から君が費消を認めたと聞いているが?」
 「嘘です。確かに課長から証拠は揃っているとか、生命保険で賠償しろとか言われましたが、私はやってない事を認めたりしません」
 部屋の中がざわつき、課長に視線が集まった。私は正面の社長と専務から視線をはずさなかった。


 「課長の言葉の真偽は確かめるが証拠が揃っているというのも事実だ。問題の1千万円分の伝票、帳簿はすべて君の印鑑で処理されている。検印は課長だが、領収書自体が偽造されており現行のマニュアルで責任を問えない。悪質な詐欺行為と私は解釈している」
 「では、その証拠の帳簿を見せてください。自分の無実は自分で証明します」
 専務は社長の方を見て、社長が頷くのを確認すると手元の帳簿を渡してくれた。問題になる所には私の印鑑が捺されている。


 「確認していただきたいのですが・・」
 「何を?」
 「3月8、9日は有給休暇をいただきました。家での祝い事と風邪です。休暇の私がどうやって印鑑を捺せるのでしょう?」
 社長の視線に人事担当常務は慌てて電話に走り、確認を始めた。
 「間違いありません、大田君はその日に有給をとっています」
 専務を制して田中社長が課長に質問をした。
 「帳簿が改ざんされていたとすれば大問題だ。部長と課長の責任を問わないわけにはいくまい。何か言い分はあるかね?」
 課長は私を睨みながら立ち上がった。
 「共犯者がいるという事です。心当たりがあります。中途入社の鈴木です。二人は親密な関係と思われます」
 「証拠はあるのかね?」
 「いえ、でも確信はあります」
 社長は課長に座るよう合図し、私の方を向いた。
 「大田君、とんでもない誤解で迷惑をかけた。この埋め合わせは考えさせてもらうが1千万の欠損は事実であり君が関係者である事も間違いない。これから事実究明をするが、その場所では居心地が悪いだろう。経理部長の横が空いてるからそちらに移ってくれないか」
 私は立ち上がり一礼をして社長の言葉に従い、部長の隣に座った。課長と高橋主任の向かえ側になったが、中央の席が無人になると課長と高橋主任の立場も変わって見える。課長は居心地が悪そうにあらぬ方向を見ているし高橋主任は俯いたままだった。
 「では誰が大田君の印鑑を使って操作したかだ。心当たりはないかね?」
  社長は明らかに私を信用したような優しい言い方をした。


 「帳簿をもう一度見てください。人によって印鑑の捺し方が違います。私のは右による癖がありますが、問題の部分は少し左に傾いています。同じように傾いている印鑑はありませんか?」
 スカタンさんから改ざんの特徴を教えてもらっていた。字の場合には筆力、領収書は折り方、印鑑では方向が決め手になる。もっとも、あの人はばれて首になった経験があるそうだ・・


 帳簿から顔を上げて、社長と専務は高橋主任に視線を移した。
 「私は・・課長の命令で仕方なく・・」
 耐え切れないように高橋主任は呟いて机に泣き崩れた。
 「これは俺を陥れる陰謀だ!大田は後輩の高橋を主任にした俺を恨んでいた。高橋は課内をまとめる為に無理をして捻出したんだろうが、俺は知らない!」
 場所を忘れたように課長が立ち上がってテーブルを拳で叩く。社長の合図で会議室の戸が開き、鈴木さんが現れた。


 「鈴木君、太田さんの容疑は晴れたが、課長は自分が帳簿の改ざんを行ったと認めていない。何か証拠があるそうだが・・」
 社長の口調は優しかった。鈴木さんは立ったままで課長に冷たい一瞥を向けた。


 「僕は真相究明の為に課長と高橋主任の事を調べました。金遣いの荒さは普通ではなく、ホテルでの証言も得ています。大田さんの印鑑が保管されている机の鍵の複製が課長の机から見つかりました。この費消は課長と高橋主任に間違いありません」
 課長は鈴木さんを睨みつけた。
 「社長、役員の皆さん、中途入社の能なしと勤続20年の私とどちらを信用されますか?こんな役立たず、懲戒免職にしてください!」
 「その能無しの役立たずは私の甥だ」
 社長は鈴木さんに、私の隣に座るよう手で指した。


 「一郎には他の職員と別の視点で仕事を見るように指示したから、上司には不満な勤務態度だったかもしれない。それはともかく、課長と高橋主任を横領罪で告訴する」
 社長の言葉に高橋主任は顔を上げた。涙で化粧が崩れ、別人のようだった。
 「俺を告訴すると何でも会社の秘密を喋ってしまうぜ。経営の実態を知ったら株主も黙ってはいない。会社は火の車どころか倒産が確実だ。それでもいいのか?」
 課長はふてぶてしく居直ったが、社長は意に介さなかった。
 「では聴聞会を終わる。経理部門は根本的に見直しをしよう」
 鈴木さんは私に笑いかけたが応える気になれなかった。社長の甥の鈴木さんは、もう私の知っている鈴木さんじゃない。

4.逆転


 課長と高橋主任は懲戒免職となり、横領罪で起訴された。鈴木さんの調査で不透明な経費使用が役員にも及び、また課長の費消が部長や関係部署への高価な贈答品や課内の遊びグループでの飲食に使われている事実が判明した。部長は左遷され、専務が兼任することになったが、新任の課長には鈴木さんが任命され、私も主任に昇格した。


 聴聞会の噂は社内に広まっており、鈴木課長と私を見る目はまったく変わってしまっている。髪型と少し化粧するようになったのも私の印象をかなり変えたらしい。誰もが挨拶し、話し掛けてくれるようになった。今は気楽に会話するのは億劫ではなく楽しみになっている。

 「太田主任、これが僕の改革案だけど意見を聞かせてもらえないかな」
 私は別に有能ではないが、課長より数字に強く現実的に内容を見る事が出来る。課長の案は斬新だが穴があった。私が何点か問題を指摘すると、課長は頭を掻いて間違いを認めた。

 「まったく主任がいなかったら僕は失敗ばかりだ。僕がここにいる間はお願いだから結婚退職しないでくれよ」
 「それだけは大丈夫です。私は一生結婚しないと思いますから」
 「どうして?」
 「だって、貰い手がありませんもの。きっとお局様とか言われて煙たがれるでしょうね。今でもそう思われているみたい」
 別に不満ではない。自分がお局様扱いというのは考えてみると大出世だ。
 「遅くまで付き合わせてしまったね。夕食を奢らせてくれないかな?」
 「いえ、気にしないでください」
 「駄目?」
 「嬉しいんですけど、私達の事を噂している人がいるみたいで」
 「僕は気にしないけど、主任には迷惑かな?」
 「課長が誤解されたら大変です。前の課長の事もありますし」
 「お互い気にならないならいいじゃないか。そんな噂、吹き飛ばしてやるよ」
 「え?」
 「じゃ、行こう。味は保証する」
 前なら喜んだだろうが、今は気乗りがしなかった。鈴木課長に人間的魅力は感じない。強い立場の人は下を見下す。金を使いまくって球界の盟主気取りの巨人より、安月給で頑張る阪神や横浜が好きだ。庶民の私には、社長の親戚である鈴木課長は別世界の人になっていた。

 課長が案内したのは路地裏の狭いラーメン屋だった。
 「今回の改革に区切りがついたら人事部に異動する予定なんだ」
 「そうですか。将来の役員ですものね」
 ラーメンはとんこつ味で驚くほどおいしかった。間違いなく私はここの常連になる。堅苦しいレストランではなくこの店を教えてくれた課長を見直した。
 「いや、かなり大規模のリストラをしなければならない。会社が倒産寸前なのは事実なんだ。生き残る為には仕方がないんだ」
 リストラ勧告をする為に誘ったのかしら?
 「そんな状況なんだが、君が厭じゃなかったら僕と付き合ってくれないかな・・」
 「人事にですか?私、そういう仕事のお手伝いは出来ません」
 「いや、会社の話じゃなく・・結婚を前提にして」
 「課長、それは・・」
 まったく予想していなかった。何て答えればいいのだろう?しかし、カウンターでラーメンを啜りながら自信なさそうに返事を待っている課長には前の鈴木さんと同じ表情があった。


 「とにかく最善をつくしたい。叔父さんは経営責任を問われて退任するだろう。僕もその時は解職される。その時まで自分の出来る事をやりたいんだ。人に何と言われても気にしないが、理解して支えてくれる人が欲しい。それが君なんだ。いや、でも、そんな勝手な理由だけじゃなく君が好きだから・・」
 胸がキュンと鳴った。好きだった鈴木さんがここにいる。変わらないで同じ鈴木さんなら、私も同じ和代でいい筈だ。
 「じゃ、一郎さんて呼んでいい?」
 「うん、僕も和ちゃんと呼ぶね」
 私達は替え玉を注文した。


 5.大逆転


 会社倒産の噂で社内は動揺していた。銀行が最後通牒を出し、それが新聞で報道されたのだ。暗い雰囲気の中、私と一郎さんだけ明るかった。そして、私は社長室に呼ばれた。


 「この方たちが太田さんと話をしたいと言われている。アメリカ大使館の交易担当官とスカタン共和国大使だ」
 豪華な応接室に社長と二人の外国人が待っていた。二人は私に握手を求め、椅子を勧める。交易担当官は日本語を話せた。
 「あなたが、10億の国債を購入された太田和代さんですね?」
 「エビセン生命で契約はしましたけど、それが何か?」
 考えてみると、スカタンさんのお陰なんだが、名前を忘れてしまった。ブタさんだっったけ?
 「契約を破棄していただきたい。スカタン共和国はジョージア州に併合します。国債は無効です」
 10万円が戻ってこないという事だと思った。でも、それで恩人のスカタンさんの立場がなくなると困る。
 「それで済むんですか?契約は契約でしょう?」
 色の黒いスカタン大使と担当官が判らない言葉で何かを話し合う。頷いて担当官は向き直った。
 「では、破棄の条件として、田中商事に日本の米国基地における加工部品取引の優先権を差し上げます。これでどうですか?」
 社長の顔色が変わった。会社が助かるどころではない、この不況下で安定した業績が約束される。
 「太田さん・・うんと言ってくれ・・」
 「社長・・」
 「君は一郎と恋人だと聞いた。この話が決まれば役員も株主も銀行も賛成する。一郎が社長で君が専務だ。いや、逆でもいい、結婚には大賛成だ。千人の職員の為にも、うんと言ってくれ」
 会社が潰れれば、老人ホームすら危なくなる。私は頷くしかなかった。


終章


 「く〜だ〜、こっちゃあこーーい!」
 エビセン生命の亀有支社の支社長室からポントチョー支社長の大声が響く。アメリカ人だけに発音は判り難い。営業室で競馬予想をしていたスカタンの久田は面倒そうに立ち上がって支社長室に行く。
 「そのふくそー、かめありのせいふくというのうそね、わたしまねしてはじ〜かいたよ」
 寅さんルックのポントチョーは顔を真っ赤にして怒っているが、元が白いだけに目立つ。
 「郷に入らば郷に従えって、勝手に真似したんじゃねぇか。俺の責任じゃないぞ」
 「あんた、とんでもないミステークね。えんエーン君、ほんしゃのめーれーでていしよ」
 「販売停止かよ・・しかし何でミスなんだ?」
 「あんたがうったえンエーン君、10おくどないしやはったぁ?」
 「10億エーンだろう?10万は入金したぜ」
 「けーやく、10おくえんね、エーンじゃないよ。よくみてみー」
 支店長が契約書の写しを投げ、拾って読んだ久田は頭を掻いた。


 「こりゃ、イージーミスね。こういう混同しやすい申込書は改訂すべきだな」
 「スカタンきょーわこくからむこーのつーちあった。てつけの10まんはぼっしゅーね。」
 「ありゃりゃ、本人には俺が弁済かよ。支社経費で出してくれねぇか?」
 「けーやくしゃ、スカタンきょーわこくでおとしまえつけたそーだ。ほんでーー」
 「何だ?」
 「あんたぁーーくびぃーー!」


 社長は会長となり、一郎が新しい社長になった。私は退社して社長夫人。ただし結婚に一つだけ条件をつけた。鈴木和代にはならないで、夫婦別姓。私は太田和代。太田の姓は私の幸せを守ってくれるから・・50%の確率で。