「終わりと始まりの夏」


(1)

 一年や二年と違い、三年になると知り合いが多いからクラス替えでのまとまりは早かった。
 生徒会の役員をやって信望のある高橋が委員長に選ばれ、2年のクラス友達やクラブ仲間という感じで幾つかのグループに大別されるが、大学受験校や男女交際なんかで少々の動きは出るだろう。
 僕はどのグループにも属さない。仲のいい友達はいないし、クラブ活動はしていなかった。進学は諦めていたし、女性に興味はない。高校三年の一年間は、ただ高校卒業の肩書きを得る為のものでしかなかった。


 目立たない傍観者の僕と違い、森尾は自己主張が激しくて孤立していた。東大を目指す秀才だが、馬鹿と天才は紙一重の奇矯な言動で周囲の顰蹙をかっている。4月のクラス会議は、彼の支離滅裂な議論で険悪な雰囲気になった。

 
 3年7組の教室は、新校舎3階の奥にある。授業中だったが、講堂でインフルエンザの予防接種を受けた森尾は、階段を駆け上って教室に戻ってきた。別に急ぐ必要はないのに荒い息で席に着いた彼を、クラスの連中は呆れて見ていた。暫くして、彼は横倒しで床に椅子ごと落ちた。


 みんなが事態に気づいて大騒ぎになるまで、どれくらいの時間だっただろう?教師も周囲の席の連中も森尾がふざけているか、たいしたことじゃないと思っていた。間延びした声で英語教師が壇上から森尾に立つよう言い、隣の生徒が面倒くさそうに顔を覗き込むと、彼は白目を剥いて口から泡を出していた。
 救急車で運び出された森尾の死を聞かされたのは2時間後だ。次の日、講堂で全校生徒参加の追悼会が開かれ、葬儀の4月29日は祭日だったがクラス全員が参列した。


 僕は森尾と一度も個人的に話したことはなかったので、葬儀での弔辞を聞くまでは自分達の年齢でも死ぬ事があるという恐れとか、感傷だけだった。森尾は子供の頃から先天的なもので心臓が悪かったらしい。教会や施設、いろいろな人が涙ながらに彼の事を悼んだ。それは、平凡な高校生である僕には縁のない世界の人たちの、非日常的な話の筈だった。
 目の前にいつも死があって、それでも東大を目指した森尾の気持ちをなど理解出来る筈がない。クラスで嫌われながらも自分を押し通そうとしたのは、残り少ない命と判っていたから妥協しなかったのだろう。


 一週間が経ち、教室は最初から森尾などいなかったように日常の和気藹々に戻った。もともと孤立していた僕がその中から離れていても気づかれるはずがない。僕は、ずっと森尾について考えていた。形にならないもどかしい物が胸の底に残った。僕にとって森尾が無関係じゃないことを思い出していたから。 
 「長谷川君が緒方さんを苛めています!」
 小学校6年の学級会まで、僕は森尾と似たようなタイプだった。妥協せず、納得しないと前に進めない。それでも別に嫌われているという意識はなかった。
 吉川というその女の子の発言で、先生から緒方という同級生にあやまるように言われた。本人が嫌がっているニックネームで呼び、馬鹿にしたという事だったが僕は拒否した。そのニックネームが差別から出ていたなんて知らなかったし、他の連中が呼んでるのを聞いた覚えはあるが、自分が親しくないその子をそう呼んだ記憶はない。苛めという陰湿な言葉から問題は大きくなって両親が学校に呼ばれ、校長に注意されたりしたが、僕はあやまらなかった。卒業まで孤立し、中学に入ってから僕は意識して目立たない存在になった。
 忘れていた自分。あれから女の子が嫌いになり、学校を信用出来なくなった。人の顔色を読むようになった。あの事がなければ、僕は森尾と同じようになっていたかもしれない。


 当たり前の話だが、40人のクラスなら40の個性がある。共通点で結ばれるか、相性で仲良くなるのだろうが、無意識に妥協して合わせている部分も多いはずだ。それが出来ない僕は自分を目立たなくさせて逃げたが、森尾は死と背中合わせだったから逃げられずにぶつかって避けられていたんだ。
 成績がトップクラスの森尾と、最下位に近い僕。何にでも無関心で目立たない僕と、細かい事でもかみついていた森尾。それでも1年間を付き合っていれば判り合って親友になれる可能性はあった。今の僕は彼を理解出来たし、彼も気づく機会があったかもしれない。
 『もし、僕が身に覚えのない吊るし上げでこうなったと知ったら、森尾はどう思う?くだらないと言うだろうな・・いつも死を意識して生きる事を考えていたお前は』
 僕の中に森尾の姿をした、もう一人の自分が生れていた。


(1)
 砕け散れ
 砕け散れ
 嘘も本当も消えちまえ
 過去も未来も捨てちまえ
 あいつがいつも舐めるから
 胸の傷が治らない
 ぶち壊せ
 ぶち壊せ 
 大人も子供も欲まみれ
 男も女もはだかんぼ
 あんたが殻を割ったから
 化粧も下着も透けちまう

 
 「ドール」という女性バンドのライブに来たのは、友人の良介と交際している仲ひとみがヴォーカルの岡田涼子の知り合いでチケットを貰ったからだ。金髪で派手な化粧の岡田涼子が声を張り上げ、激しいビートに乗ってホールはヒートアップする。狭い会場はすし詰め状態で、1曲終わるとリョーコー!という掛け声が飛んだ。ジーンズの短パンとブラだけでスタイルの良さを惜しげなく晒し、汗をまき散らしながら身体をくねらせて歌う彼女には妖しい魅力があった。


 良介は僕にとって唯一の友人と言っていい。彼とは小学校の3、4年が一緒で、中学に入ってから一年の時にも同じクラスになった。どちらかと言うと彼が親しげに近づき、僕が避けなかったから付き合いが続いてる。交際範囲が広い彼にとって、自分しか友達がいない僕というのは面白い相手に思えていたのだろう。
 良介と仲ひとみはサッカー部のキャプテンとマネージャーだったが、進学校の明修高校は春季大会で3年生は引退しなければない。1回戦で敗退し、退部した良介はずっと元気がなかった。それで同じく3年生でマネージャを辞めたひとみが気分転換にコンサートへ良介を誘い、良介が僕を巻き込んだ。


 コンサートは初めての経験で面白かったが、夜の7時から1時間半の喧噪は慣れないだけにかなり疲れさせた。終わってから仲ひとみの誘いに乗って近くの喫茶店に入り、4人掛けのテーブルで良介の隣に仲ひとみが座り、僕は良介の正面の席に座る。いつもは僕と良介が並び、良介の前にひとみが座るのだが、今回は何故か違っていた。
 「時間、いいのか?もう9時過ぎだぜ」
 福岡から久留米まで特急で30分だが、家につくまでは1時間以上かかる。良介の心配に仲ひとみはアイスコーヒーを飲みながら安心させるように胸の前で手を振った。
 「大丈夫、さっき携帯入れたから。それから涼子さんがここに来るって」
 「涼子さんって、さっきのヴォーカリスト?」
 「うん、車で久留米まで送ってくれるわ。彼女のマンションは津福にあるの」


 良介と仲ひとみの会話に僕は入らない。これは仲ひとみとの暗黙の了解事項だ。僕と良介が話している時は、良介が話し掛けるまで仲ひとみは口を閉ざす。
 別に僕と仲ひとみが仲違いしているわけじゃない。お互いに気が合わないから全く関心なだけだ。。良介は友人だが、だからと言って交際相手の仲ひとみと親しくなる必要はない。
 「涼子さん、私達より2歳年上なんだけど、大分の女子高を中退してからヨーロッパを回って2年前に戻ってきたの。1年前のライブの写真送ったら喜んでくれて、それからのお友だち」
 良介も仲ひとみも社交的な方だから、自分と別世界の人に興味を持つのだろうが僕には関係がない。いつもの席順と違うのは大人の魅力を漂わせている岡田涼子を良介の前にも横にも座らせたくなかったのだろう。面倒だから先に帰ると良介に言おうとした時、仲ひとみが立ち上がって入口の方を見た。自動ドアから現われたのは、服装と髪型は変わっているが話しに出た岡田涼子と、聖和学園の洒落た制服の少女だった。


 「ごめん、手間取っちゃった」
 岡田涼子は仲ひとみに謝って横から空いている椅子を引っ張ってきて座り、少女は困ったように僕の隣の席近くに立っていた。
 「私の親戚で若菜夕子、聖和の2年よ。一緒にいいかしら」
 その少女は機械的に少し頭を下げる。ストレートの髪が肩より長く、目が大きい。仲ひとみは思いがけない参入者に戸惑ったようだった。
 「ええ、もちろん」
 仲ひとみが戸惑いがちに応え、少女は視線が合った僕が頷いてから隣に腰掛けた。
 「で、どっちがひとみの彼なの?」
 仲ひとみは岡田涼子を睨んだが、涼子は名前の通り涼しい顔をしている。良介と僕は自己紹介をした。
 「私、年下趣味はないんだけど、たまに遊ぶのも悪くないわね。加納君だとひとみに殺されるし、長谷川君はどう?彼女はいるの?」
 「いない、絶対にいない。私が保証するわ!」
 良介とのことをからかわれて頭に来ていた仲ひとみは勝手に断言した。ここは怒るか反論すべき場面だが、僕の意識は隣の若菜夕子に集中していた。
 聖和学園は久留米の御井町にあるお嬢様学校だ。この若菜夕子も中流以下の家庭に育った僕には別世界の存在の筈なんだが、彼女の無関心な、むしろ冷たいと言ってもいい大きな瞳を見たときに衝撃が走った。森尾か僕自身か、どちらかに共通する色がそこにあった。

 
 喫茶店を出て、岡田涼子のアウディで久留米に向かった。助手席に仲ひとみ、後部は僕が中央で助手席後ろに良介、反対側に若菜夕子が座る。岡田涼子と仲ひとみはライブを話題に盛り上がっていたが良介は疲れて眠ってしまい、僕と若菜夕子の間で会話はなかった。
 「ドールを解散?どうして・・もったいないわ」
 「それがね、ヨーコがミスって孕んじゃったの。相手は大学生だから結婚するか判んないんだけど、どうしても産むって。一人でも欠けたらドールじゃないわ」
 「そうかぁ、残念だわ」 
 車は大宰府インターで九州自動車道に入った。
 「どういう順番で送ればいいかしら?」
 「悪いけど、加納君、私、長谷川君でお願いするわ」
 「OK、ちゃんと道案内してね」
 若菜夕子を気にしながらも、僕には仲ひとみの気持ちが判った。良介を自分がいない時に岡田涼子や若菜夕子と一緒にしたくないんだ。そして僕の家は知らないし、興味もないから先に帰ろうという計算だろう。
 良介の家から回って仲写真館で仲ひとみと別れた時には11時を過ぎていた。車の中は岡田涼子と若菜夕子、それに僕の3人だけだ。


 「ねぇ、長谷川君、夕子をどう思う?」
 僕の家に向かう3号線バイパスで突然、岡田涼子が言い出した。
 「バンドが解散だから自由に遊び回りたいんだけど、夕子が邪魔なの。この子の相手がいると助かるのよ。暇だったら付き合ってやってくれない?」
 僕は助手席後部に席を移しているから、涼子の横顔が見えるが、冗談を言っているようでもない。
 「若菜さんの気持ちもあるでしょう?」
 「夕子は私の人形だから逆らわないわ。どうする?」
 「僕でよければ是非・・」
 僕は慌てて答えた。躊躇えば涼子の気が変わるかもしれない。 
 「じゃ、貸してあげるわ。傷つけたら責任とってね」
 涼子の言い方には投げやりな響きがあった。若菜夕子との関係に何か別の面がある。ただ、それにこだわる時じゃない。
 「若菜さん」
 僕は勇気を出して横にいる若菜夕子を正面から見た。
 「はい?」
 微笑んでいた。でも瞳は笑っていない。
 「今度の日曜日、映画に付き合ってくれる?」
 「いいですけど、お願いがあります。苗字で呼ばれるの、好きじゃありません。名前で」
 「判った。夕子って呼ぶよ」
 岡田涼子が小さく咳をした。夕子の表情は変わらない。
 「じゃ、電話するね」
 家の前で降りる時に手を差し出すと、夕子が小さな手で握ってくれた。予想と違い、その手は暖かかった。


(2)
 クラス会議は予想外の発言で混乱した。いろいろな表情が立ち上がっている僕の方に向けられている。戸惑い、からかい、嫌悪、無関心。
 「長谷川君の意見も判るが、クラス全体で取り組む形にしたいんだ」
 委員長の高橋が諭すように言い、いくつかの顔が頷いた。彼のグループで既に決定し、クラス内での根回しも済んでいたのだろう。
 「僕はオブジェ展示に反対しているわけじゃない。でも全体でと言うなら、それぞれ考えも趣味も違う筈だ。受験勉強で忙しいから側面に紙を張って参加したというのじゃ、意味がないだろう」
 険悪な雰囲気になっていた。すべての視線が敵意を含んでいる。僕は今、森尾と同じ立場になっている。
 「お前は受験しないからそんな発言が出来るんじゃないか?」
 思った通り、吉村が怒った顔で突っかかってくる。森尾の時には受験勉強ばかりしてと反発していた奴だ。
 「受験しない人間はクラスの一人に入らないのか?」
 「待ってくれ。他に意見はないか?」
 苛立った様子で高橋は僕を無視し、何人かを指名した。ニュアンスは違うが、オブジェに賛成の意見ばかりだ。
 「多数決で文化際のクラス出展はオブジェに決定だ。長谷川君も決まったんだから協力してくれ」
 挙手の後、宥めるように高橋が僕に言った。
 「いやだ、制作表示から僕を抜いてくれ」
 「文化祭は全員参加が決まりだ。勝手な事を言うな!」
 ついに切れた高橋が怒鳴った。その目は思い通りにならない僕に対する怒りと、落ちこぼれへの軽蔑を剥き出しにしている。僕が見たかった本音の顔だ。
 「個人参加は認められている筈だ。僕は僕でやりたい事がある」
 「わかった。文化祭実行委員会にはそう報告しておくよ」
 急いでいつもの温和な表情を建て直し、高橋は会議を終わらせた。


 僕がクラスで反乱を起こした話は悪意的なイメージで広まり、良介と仲ひとみの耳にも入った。
 「結局、変わってなかったんだな、彰は」
 良介の口調は面白がっていた。仲ひとみは意味が判らず僕たちを交互に見る。彼女は良介の両親に気に入られて良介の家には出入り自由だが、僕はずっと前からそうだった。
 「小学校の頃の彰は誰にでも喧嘩を売ってた。同級生だけじゃなく先生達にもね。それが中学に入ってから別人のように大人しくなったんだ。それが何で今ごろになってぶり返したのか興味あるな」
 良介の説明に、今の無関心な僕しか知らない仲ひとみは意外そうな顔をした。良介は僕が夕子と付き合いだしたから変わったと思っているのだろう。
 「原因はいろいろあるけど・・これを読んでくれないか」
 僕は持ってきたノートを良介に渡した。
 「終わりと始まりの夏・・か」
 戸惑った表情で表紙を眺め、開いて黙読する。良介のページをめくる音だけが部屋に流れた。
 「いいか、ひとみに読ませても」
 「ああ、その為に仲さんがいる時に来たんだ」
 良介から受け取ったノートを仲ひとみが読み始め、良介は腕組みをして僕を見た。
 「ビデオ制作ね・・それで俺とひとみを巻き込む気か」
 「夕子と涼子さんもだ。基本的には僕が脚本、良介が監督、仲さんが撮影で涼子さんが音楽、夕子が美術でみんな出演も兼ねる。1時間程度にまとめて文化祭に出品したい。協力してくれないか」
 良介も仲ひとみも映画好きで、この企画は前に二人が話していた内容を思い出したのがきっかけだ。良介は迷いながらも興味を示していた。
 「でも・・夏休みは受験生にとって貴重な時期だからな・・」
 ためらいがちに良介は仲ひとみの方を見た。ひとみは読み終わってから考え込んでいる。
 「涼子さんと夕子さんには話したの?」
 「いや、まず仲さんと良介からと思って、まだ話してない」
 良介がちょっと驚いた顔をした。仲ひとみが僕に話し掛けるのは本当に久し振りだから。
 「いくつか疑問点はあるけど、全体的には面白いと思う。この内容は固定なの?」
 「いや、原案だ。みんなの意見を取り入れる」
 もう大丈夫と思ってつい表情を緩めてしまった僕を仲ひとみが悔しそうに睨む。
 「機材は私の店のを当てにしてるんでしょう」
 「うん、それと仲さんの腕もね」
 ひとみは肩を竦めて降参した。
 「どうせ、今の良介だと夏休みの勉強なんて能率が上がらないわ。切り替えて二学期から集中するほうがいいかもしれない。面白そうだから、私は乗ってみる」
 「じゃ、俺も付き合うよ」
 嬉しそうに良介が答えた。僕と仲ひとみの仲が悪いのは彼にとって悩みの種だっただろう。三人でこれからの計画について話し合った。


 終わりと始まりの夏、僕が初めて書いた脚本。
 頭の中で渦巻いている物を一つの形にしたつもりだ。
 森尾の死、夕子との交際、封じ込んでいた自分。
 夕子の部屋で嘆き、諦め、絶望、そういう言葉しか浮かばない彼女の絵を観た時に、どうやっても近寄れない夕子の世界を覗いた気がした。僕はあの絵を越えなければならない。ビデオ制作を僕が変わり、夕子を変える糸口にしたかった。
 夕子との交際は表面的に順調だった。喫茶店で待ち合わせて映画を見たり商店街や公園を歩く。どんな話でも真面目に答えてくれるし、僕が何を言っても嫌だとは言わない。試しに部屋が見たいと言ってみたら、同居している涼子が留守だと判っているのに入れてくれた。
 もし僕が不埒な行動をとったら、夕子は人形のように僕を受け入れ、次の待ち合わせでは何も変わらずに冷たい瞳で笑顔を見せる気がする。人に逆らわないプログラムで受け答えする精巧な美しい人形。違う、夕子は自分を封じ込めている。僕は何としても彼女の心を解放して自分の物にしたかった。
 森尾の死で自分を見つめなおした僕は、夕子の冷たい瞳に自分との共通項を感じて激しく惹かれている。中学で楽をするために心を閉ざし、他人を気にせずに表情や言葉で相手の気持ちを掴もうとするようになった。自分だけの世界を作れば他は関係のない。表面だけ合わせて目立たないが嫌われない存在になった。無気力で無関心な僕を仲ひとみは露骨に軽蔑し、良介は気づかない振りをして離れなかった。
 夕子は僕と同じなんだろか?僕の気持ちを嘲笑うようにあの絵は否定していた。だから僕はもっと先にすすまなければならない。


(3)
 涼子と夕子の部屋はマンションの最上階にあり、広さに圧倒される。涼子の音楽部屋、夕子のアトリエだけで僕の家を上回っていた。居間のソファに短パン姿で胡座をかき、涼子は僕のシナリオを検討していた。ひとみは良介の視線が涼子の体に行っていないか気にして落ち着かない。
 「つまり、主人公は見えない影ってことね」
 読み終わった涼子は意外そうに僕を見た。初対面の時とは感じが違うと思ったのだろう。
 「うん、影は登場人物が都合よく作り出した存在だから顔がないんだ。自分の心の影になるのかな。本当は影に頼って自分を誤魔化している。影なら判ってくれる、影に任せれば大丈夫、影の考えが正しいってね」
 「じゃ、影は自分自身?」
 「それは人によって見方が違う。憧れの相手だったり、身近な存在かもしれない」
 僕にとっては自分の中の森尾だ。彼はいつも僕を励ましてくれる。
 目を閉じて少し考えてから涼子は近くにあったギターを抱えて爪弾いた。


 今日の風は緑色
 優しく優しく髪を撫でる
 舞い上がってきらめいて
 山の方に流れたわ
 耳をすまして聞いてみて
 風の歌が聞こえます
 心を開いて呼んでみて
 風の返事が聞こえます


 静かな曲だった。ひとみが拍手して僕と良介も続き、涼子は照れたようにギターを戻した。
 「ロックだけじゃないのよ。ちゃんとビデオに合った曲を作ってあげるわ。夕子も大丈夫ね」
 涼子に呼びかけられた夕子は、困ったような表情を見せた。冷たい瞳は変わらない。
 「私、我流の抽象画だから合わないわ。彰さんのお役には立ちたいけど・・」
 「違うよ、僕は夕子の絵をイメージして構想を練った。夕子の絵が合わなかったら脚本の方が間違っている。作品に夕子の絵は絶対に必要なんだ」
 夕子の瞳が微かに揺らいだ。一瞬だったが、僕は手がかりを掴んだ。
 「夕子、協力してあげなさい。仮にも今は彼氏なんだから」
 僕と涼子は目を合わせた。涼子はどうにでも料理できると多寡を括っていた相手が爪を立てようとしている事に気づいたのだ。逡巡の色はすぐに皮肉な表情に変わった。
 「長谷川君と夕子の問題で私は関係ないわね。じゃ、具体的に見直してみましょう」
 涼子の言葉に、ひとみがほっとした様子で内容について自分の考えを説明し始めた。

 
 撮影場所  マンション、阿蘇の別荘
 「若菜家の持ち物なんだけど大丈夫。私と夕子が使うなら最優先だから」    

 
 別荘での撮影期間 8月2日から14日
 「7月中にマンションの分は撮り終えよう」
 「でも良介さん、別荘で肌が焼けちゃったら困らない?」
 「そうか・・場面によっては取り直しが出るかもしれないな」

 
 登場人物を4人に変更
 「私、撮影に専念したいの」
 「でも、それだと影の相手がいなくなる」
 「長谷川君、影は男性に固定しているの?」
 「涼子さんの意見は?」
 「どっちにでも見る人の感覚でとれる方が面白いわ」
 「なるほど・・練ってみます」


 人物設定の変更
 「夕子と長谷川君が愛し合う二人で、私と加納君が憎み合ってるのね。単調にならないようにアクセントをつけようよ」
 「何ですか?アクセントって」
 「私のヌード」
 「これ、文化祭の出品なのよ!」
 「あら、加納君とは絡まないわ。影が相手ね。うまく写すのが撮影の腕でしょう?」
 「でも・・やっぱり、刺激が強すぎる」
 「そこはひとみに任せるわ」


 脚本は全く内容を変えていった。僕はみんなの意見で書き直しているだけだ。良介とひとみが中心で、涼子がアドバイスを入れ、最初の思惑を超えた作品になりそうだった。夕子も一人だけ外れてはいられない。僕の狙い通りに進行していた。


 クラスでは村八分状態になっていたが、ビデオ制作に熱中して気にならなかった。むしろ今では一番近い存在の森尾を感じて心地よい。森尾は僕の見えない影だが、夕子の影は誰だろう。それが判った時、夕子との関係はきっと変わる。本当は怖かった。知ることによって夕子を失うかもしれない。それが次の一歩を躊躇わせていた。


 夏休みに入り、マンションを根城に撮影を始めた。ビデオ制作で良介とひとみの呼吸はピッタリと合っている。ひとみが店から持ち出した機材はプロ用で、彼女は練習したらしく楽々と取り扱う。夕子は臆する様子もなく素直な演技が出来たし、涼子さんは堂々とアドリブすら入れた。僕も何とか、二人に刺激されて予想以上にうまくやれたと思う。僕たちはチームとしてまとまった。


(4)
 若菜家は僕なんかに想像出来ない資産家らしい。阿蘇の別荘は映画やテレビの世界だった。むしろ、その現実感のなさが慣れるのをを早めたのかもしれない。部屋も10室以上あるからゆったりと一人部屋を占領できる。そんな気持ちの余裕もあって撮影は予定より順調に進み、1週間が経った。
 夕子が部屋に戻り、居間で一人になった僕は庭に出た。空を見上げると、本当に星が降ってくるようだ。僕は昼間の涼子のヌードシーンで少し興奮していた。
 「長谷川君、夜の散歩?」
 芝生から声がした。涼子が寝転がっていたんだ。もっとも、僕は彼女がこの付近にいると思ってやってきたのだが。 
 「飲む?」
 涼子が缶ビールを放り投げ、僕は受け取って涼子の横に腰かけた。
 「夕子は?」
 「部屋に戻りました」
 僕はビールを喉に流し込んだ。苦い。
 「今夜はひとみと加納君の邪魔をしちゃ駄目よ」
 「判ってます」
 二人は今ごろ初体験に溺れている筈だ。良介を独占するためならひとみは何でもする。自分を投げ出して良介の中から涼子の裸を拭い去る。それほど涼子のヌードは綺麗だった。
 酔いが少し回り、僕は涼子と並ぶように寝転んだ。
 「長谷川君も夕子と一緒だろう思ったわ」
 「涼子さんの思い通りにはなりません」
 涼子が上半身を起して僕の顔を覗き込んだ。ビールのせいか目が潤んで見える。
 「私の思い通りって、どういう意味?」
 「僕を使って夕子を汚す。それで涼子さんにどういう得があるかは判りませんが」」
 涼子は目を逸らした。
 「面白いわね、まだ続きがあるの?」
 声が少し震えている。
 「涼子さんは何故か夕子を憎んでいる。夕子もそれを知っている。二人の間に誰かがいて、その人と夕子の関係が判らないけど、涼子さんにとっては影の人ですね」
 乾いた笑いが響いた。笑いながらビールを飲もうとしてむせる。僕の考えは当たっていたようだ。
  「人選を間違えたわね。長谷川君がこんな人とは思わなかった」
 立ち上がった涼子は飲み終えた缶を思い切り上に投げた。放物線を描いて落ち、転がって見えなくなるまで、僕たちは黙って目で追った。
 「もう口出ししないわ。夕子は長谷川君が好きにすればいい」
 「教えてくれませんか。夕子の中の影を」
 夕子は自分が普通に見られていると思っている。いや、そう演技してきたんだ。僕も気づかない振りをしてきた。無造作に触れれば夕子を失ってしまうかもしれない。
 「話したら、夕子が変わるというの?」
 「変えてみせます。そして夕子の心を僕のものにします」
 涼子は溜息をついて、困ったように僕を見た。
 「ニワトリと卵ね」
 「どういう意味?」
 「夕子の心を動かしたら話してあげるわ」
 そのまま別荘の方に戻ろうとする。
 「心を動かす為に聞いちゃ駄目なんですか」
 「本当なら絶対に話してはいけない事なの。それで我慢して」
 月明かりの中で涼子は抜群のプロポーションを見せつけながら別荘に去っていった。


 人間関係は微妙に変わっていたが、撮影は無事終了した。編集の段階で挿入する夕子の絵も、終わりは暗く始まりは明るくという僕の意見を反映させてマンションの絵と違う感じに仕上がっている。終わるから始まる、終わらなかったら始まらない。登場人物は影によって過去を清算し、その手助けで出発をする。ただ、影から独り立ちするかはそれぞれで違う。
 最終日に涼子は熊本市内に買い物で出掛け、良介とひとみは部屋で帰り支度をしている。二人きりになって、僕は夕子を近くの林に誘った。
 真夏の日差しがきつい。街から離れた高原で日常から離れると開放感がある。それが消えぬ今、僕は夕子を掴まなければならない。


 「夕子のおかげでビデオが完成する。最高に嬉しいよ」
 「私は何も・・」
 夕子の瞳がかすかに揺らぐ。押し殺されている彼女の感情が動揺しているのだ。
 「楽しかった、久留米に戻りたくないよ。夕子は楽しかった?」
 「ええ、とても」
 僕は夕子の肩を掴み、引き寄せた。抵抗もなく夕子の体が僕の胸におさまる。片手を背中に回してもう片手で夕子の顔を僕の方に向かせる。微かな震え、瞳に不安そうな揺れ。それは恐れではなく、反応しようとしている自分への戸惑い。
 「わかったんだ。僕には夕子が必要だって。夕子がいないと何も出来ないんだって」
 夕子は驚いたように身体を硬直させた。僕はそのまま夕子の唇を奪った。
 「彰さん・・」
 顔を離すと夕子は泣いていた。もう瞳に冷たい影はない。震えながら僕にしがみついてくる。
 「怖い・・自分が・・」
 「愛している。僕のそばにずっといて欲しい。そして・・僕を愛して欲しい」
 二度目の口付けで夕子は何かを振り捨てるように激しい反応を見せた。


(5)
 久留米に戻り、フィルムを見直してマンションでいくらかの手直しを撮影した。
 後は良介とひとみの編集だけで、僕と夕子、涼子の仕事は残っていない。僕と涼子は喫茶店で待ち合わせた。
 「認めてあげる、確かに夕子は変わったわ。喜んでいいのかどうかは判らないけどね。何で美人の私が一人だけ取り残されちゃうのかなぁ〜」
 涼子は両手をおどけて広げ、降参というように明るい声で言った。
 「約束です、教えて下さい」
 「仕方ないか・・でも他の人には言わないで」
 そして、涼子は若菜家と夕子の関係を明かした。


 若菜家は大分市内で指折りの資産家で、涼子の岡田家にとって本家筋だった。若菜家の当主は仕事人間で会社の業績を伸ばしたが、子供は娘が一人だけで跡を継ぐ息子がいなかった。会社の有能な社員を娘の婿養子に迎えたが、長男の俊一が生れた後に婿養子は過労で亡くなった。
 強引に押し付けられ、やっと子供が生れて愛情を感じ始めた矢先に父親から会社でも家でもこき使われて夫が死んだんだ。俊一の母親は父親を恨み、当てつけで遊びまわって町で知り合った男と勝手に結婚して家に連れてきた。男には夕子という5歳の娘がいた。


 「じゃ・・夕子は若菜家と血はつながっていないの?」
 「ええ、でも当主のお祖父様も俊一さんも、とても気に入って可愛がったの」
 後継ぎには俊一がいるし、婿養子の死について自責の思いを持っていた先代は夕子が素直で可愛い子だったのも影響して娘の我がままを許した。夕子の父親は大人しくて優しい性格だったらしいが、父親へのあてつけで結婚した娘にとっては予想外の結果で、逆に夕子の父親に対しての不満が高まったらしい。
 それからの5年間、若菜家は落ち着いた。俊一の母親は積極的に会社の仕事を覚え、俊一は夕子は仲のいい兄妹になっていた。当主は仕事より俊一と夕子との時間を大事にしたし、夕子の父親は仕事に向いていないが、みんなから好かれていた。
 事態が変わったのは当主の死だった。まだ中学生だった俊一が家を継ぐのは決まっていたが、後見として実権は母親が握った。そして、母親が最初にやった事は夕子の父親との離婚協議だった。


 「親子ですものね、お祖父さまとお母様はよく似てらっしゃったの。仕事中心になったお母様は働かずにブラブラしている夕子のお父様を軽蔑するようになっていたのね。本当はお父様が家を守ってらっしゃったんだけど、それには気づかれなかった。そしてお父様の目的は若菜家の財産だと信じられて、夕子を若菜家で引き取るかわりに、かなりの慰謝料を払うという条件をつけたの。お母様は夕子を呼んで、お父様と若菜家のどちらを選ばせたのね。夕子は、若菜家を選んだわ」
 涼子はアイスコーヒのコップに残っていた氷を口に放り込み、ガリガリと噛んだ。
 「私はその場に居なかったから聞いた話なんだけど、お父様もそうするように夕子に勧めたそうよ。夕子の気持ちの中には大好きな俊一さんと離れたくない気持ちもあったのじゃないかしら?」
 「涼子さんも俊一さんが好きだった?」
 「片想いだったけどね」


 一人っ子の俊一は親戚で家の近い涼子を可愛がってくれた。涼子にとって初恋だったが、夕子が現われると俊一はあまり相手にしてくれなくなった。
 「家が近いから、よく二人が遊んでるのを見かけたわ。妬ましいから私は夕子を嫌った。だからますます俊一さんは私から遠ざかっていった。馬鹿な話ね、それでも私はずっと俊一さんが好きだったの」
 涼子が夕子を嫌っている理由は判った。でも、夕子が心を閉ざした原因にはならない。
 「それで、若菜家に残った夕子を俊一さんのお母さんがいびったんですか?」
 「違うわ・・やっぱり話さなければ駄目でしょうね・・」


 離婚が成立し、若菜家を出る前の夜に、夕子の父親は部屋で首を吊って死んだ。発見したのは最後の夜を一緒に過ごそうとした夕子だった。声も出さず、梁に通した紐を首に巻きつけて揺れている父親をじっと見つめたままだったらしい。開いた襖から中を覗き見た俊一が大声を出してみんなが気づき、大騒ぎになった。
 「そんな・・」
 「夕子はね・・自分がお父様を捨てたからだと思っている。自分を許せなくて心を閉じてしまったのよ」
 夕子の父親が財産目当てだと信じていた俊一の母親は自分の間違いに気づいたが手遅れだった。彼女は家庭を顧みないで仕事一点張りだった父を軽蔑していたが、その時の彼女がそうだった。夕子の父親と親しくなっていた俊一も傷ついていた。世話になっていたのにどうして反対しなかったのか。母親に言われた時、夕子が残るならと折れてしまった。
 三人の中で、すぐに平静を取り戻したように見えたのは夕子だった。彼女は何事もなかったように振舞い始め、俊一と母親もそれに合わせた。でもそれは、お互いを気遣いながら傷口を治さずに隠したままの芝居。夕子の父親についての話は親戚中で絶対的なタブーになった。
 「俊一さんは大学を卒業してお母さんの会社に入ったわ。夕子が家を離れて聖和学園に来たのも、若菜家から離れた方がいいという考えだったの」
 「夕子の部屋の絵は、お父さんの自殺の状況を描いていたものだったのか・・」
 線と人の不自然な感じが理解出来なかったが、言われてみれば首吊りだった。そんな絵を毎日眺めて立ち直れる筈がない。そうか、いつも死を見つめていた森尾との共通点がここにあった。そして、心を閉ざした僕との共通点。
 「でも、俊一さんですら駄目だった夕子の心をどうやって開いたの?」
 「彼女も頼れる男が欲しかったんですよ」
 「答えになってないわね」
 涼子は諦めたようにそれ以上追及しなかった。知っているのは僕だけでいい。夕子の心を僕の物にするのだから。


(6)
 9月10日、編集の終わったビデオテープを添付して文化祭実行委員会に第二講堂の使用願いを提出した。涼子のヌードシーンのカットを条件に出された場合は参加を諦めるつもりだったが、予想外の展開になった。
 何人の教師は涼子のシーンに眉を顰めたらしいが、支持する委員が圧倒的に多かったらしい。しかも口コミで、解散したドールのリョーコがヌードで出演しているという話が広まった。
 第一講堂の催しは第二講堂に変更され、第一講堂で上映も1時間毎の休憩を入れて5回。文化祭の目玉の一つとして扱われる事が決定した。


 文化祭当日、僕たちは伝説を作った。5回の上映とも超満員で、休憩時間にも涼子が調子に乗ってアカペラで歌ったものだから大変な盛り上がりになった。テープをダビングさせてくれという要望が凄まじかったが、すべて断った。僕たちの夏を汚したくなかったから。
 終わった後、僕たちはマンションで祝杯をあげた。こんな時にジュースで済ませられるわけがない。
 「祭りの後の虚しさかぁ、何か寂しいね」
 ライブに似た興奮を思い出していたのだろう、涼子が呟いた。
 「本当はビデオが完成した時に終わってたから、今日は付録ですよ。区切りはつきましたけどね」
 さすがに、夕子の心を掴めたからとは言えない。
 「長谷川君はこれからどうするの?よかったら就職先を紹介してあげるわよ」
 「いえ、大学を目指します」
 良介とひとみが驚いたように僕を見た。
 「本気か?」
 「うん、今回の件で目的が出来たんだ。小説家を目指して大学の文学部に入る。今さら国立は無理だし、私立に行ける家じゃないから公立の北九州市立大学を受験するよ。わりと得意な科目だから頑張れば不可能じゃない」
 「じゃ、夕子とは遠距離恋愛になるの?」
 「小倉ですよ、遠距離じゃないでしょう」
 それでも、下宿にはなる。バイトしなければいけないだろうし、通学時間と交通費を考えれば仕方がない。
 「良介、これからは同じ受験生だ。遅れを取り戻そう」
 「悪いな、俺とひとみは受験をやめたんだ」
 今度は僕が驚いて二人を見た。
 「何で・・」
 「前に話したが、俺は自分が何をやりたいか判らなかった。経済か法律か、大学を卒業してサラリーマンになる事を前提に考えていたんだ。打ち込める仕事を選びたい、そう思ったら自分のしたい事が判った。俺、陶芸家になるよ」
 「私は写真専門学校に行くわ。趣味じゃなく仕事にするの。プロになって芽が出るまで良介を養っておげる」
 「おいおい・・」
 僕は頭を抱えた。どうやら夏の余波は僕だけじゃなかったようだ。


 「始まりから終わりじゃなく、終わりから始まりね。終わったままは私だけか」
 涼子は頭にきたらしく、ウイスキー瓶を抱えて自分の部屋に戻って行った。
 「夕子が傍にいると何でも出来る気がする。何も怖くないよ。これからも僕を支えていてくれないか」
 良介とひとみが先に帰り、居間は僕と夕子だけだった。
 「はい、でも・・」
 「何?」
 「余り受験まで日数がないんでしょう?今からは勉強を第一に考えるべきです。あまり会わないほうがいいんじゃないでしょうか?」
 僕が言おうとしていた事を先に言われた。
 「うん・・毎週とはいかなくなるけど」
 「集中してください。合格を信じて待ってますから」
 「合格までの辛抱か・・つらいな」
 抱き寄せて口付けをする。合格したら夕子の身体も自分の物にすると決めていた。


 クラスでの僕の立場は大きく変わり、嫌われ者が一転して一目置かれるようになった。
 高橋は会議の時に教えてくれれば協力したのにと残念そうにぼやき、みんなから感想や称賛を受けた。僕が北九州市立大学を受験すると知って、積極的にアドバイスをしてくれる。
 僕は自分の考えを変えたわけじゃないし、彼らを嫌っていたわけじゃない。
 妥協せずに自分を主張して認められるのは心地よい。僕はそれを自分の世界にするため、文学を目指す。大学はその第一歩だ。
 僕は寸暇を惜しんで勉強した。今まで何もしてなかっただけに、面白いくらい成績が上がる。事情を知っているからクラスの連中も気を使って応援してくれ、当番などは免除を受けた。
 夕子とは電話だけだったが、12月に入って家のお母さんが入院し、大分に涼子と夕子が戻っていって連絡がとれなくなった。
 せめてクリスマスと初詣だけでも夕子と一緒にと思っていたが叶わず、1月になって学校から帰った僕を待っていたのは涼子だった。


 「頑張ってるようね」
 驚いた事に髪を黒に戻し、化粧も薄くて地味な服だった。
 「うん、夕子のお母さんの具合はどうなの?」
 「ガンなの・・夕子のお母さんじゃないわ。私のお母さんよ」
 「えっ?」
 「私・・結婚したの。俊一さん・・前に話した夕子の義理のお兄さん」
 涼子が恥ずかしそうに見せた指には指輪が光っていた。
 夕子の父親が自殺してから若菜家は前に増して夕子に気を使い、俊一に相手にされず涼子は夕子を憎んでいた。荒れて家出し、俊一と夕子を忘れる為に海外を遊びまわった。無一文で戻ってきた涼子を実家は世間体を考えて勘当し、話を聞いた俊一が家を離れる夕子の面倒をみるように頼んできた。
 「生活費は出すから、夕子から目を離さないようにというのが条件だったの。だから夕子のお陰でライブ活動も優雅なマンション暮らしも出来たのよ。まったく私って恩知らずね。夕子が母さんの看病で病院に行っていて、私は若菜の家の家事を手伝ったわ。それで、俊一さんと二人だけのだけの夜があったの。私、あのビデオを俊一さんに見せて・・ずっと好きだったって告白したの。ヌードシーンの時によ」
 思い出したように涼子は顔を赤らめながら嬉しそうだった。
 「俊一さん、抱いてくれた。そして、今のうちにお母さんを安心させたいからすぐに結婚しようって・・病室で私の家族と夕子だけが参列した結婚式、私・・世界で一番幸せだったわ」
 「おめでとう、涼子さんにも素敵な始まりがあったね」
 もし自分にライバルが現われるとしたら義理のお兄さんしかいないと思っていたので、内心ほっとしていた。
 「うん、それで若菜の家に入ったからマンションの私の道具は全部運び出したの。夕子はお母さんの傍から離れないからどうなるか判らないけど、あなたに私の鍵を預けるわ。何があっても夕子の力になってね」
 「僕に出来る事なら何でもするよ」
 それから10日ほど経って、夕子からお母さんが亡くなったという連絡を受けた。

 
(7)
 正直、五分五分と思っていた。
 滑り止めなんか受けていないし、浪人する余裕はない。ただ、落ちたらどうするかは全く考えていなかった。
 「サクラサク」
 どうして電報代をケチる為にこんな短い文章にしてしまったのだろう。
 良介とひとみにお祝いをしてもらい、何箇所かに挨拶して家に戻ったのは8時過ぎだった。もちろん一番知らせたいのは夕子だが、ずっと連絡がない。大分に電話を入れるのは涼子に止められていた。
 母に、女の声でお祝いの電話があったと渡されたメモにはマンションの電話番号が書かれてある。僕は急いでプッシュボタンを押した。これからはお互いに携帯を持とう。それぐらいは親もお祝いで買ってくれる。
 「合格、おめでとうございます」
 待ちに待った懐かしい声だった。
 「運が良かったんだ。夕子の方はどう?もう落ち着いた?」
 「はい、大丈夫です」
 「会いたい、マンションに戻ってるの?」
 「ええ、3日前から・・」
 かなりムッとした。それなら教えてくれればいいのに。でも、ずっと空けていたマンションの整理で忙しく、発表前の僕に気を使ったんだろう。
 「今から行っていい?」
 「明日・・来てください。それで、私の絵を貰ってください」
 「いいの?」
 それは、ビデオで使った「終わりと始まり」の絵だ。僕が欲しいと言ったのだが、夕子は記念に持っていたいと断った。
 「ええ・・もう必要ありませんから」
 「判った。明日何時頃?」
 「何時でも・・早いほうがいいかもしれません」
 「じゃ、9時に行くよ」
 「お願いします」
 「じゃ、明日」
 「さようなら」
 物足りないものがあった。久し振りだから固くなったのだろうか。今の会話を反芻しながら、背筋を冷たい物が走った。
 僕は外に飛び出してタクシーを拾った。気持ちだけが先走りして津福のマンションに着く。エレベータが異常に遅い。部屋の前で僕はインターホンを鳴らさずに鍵を開け、居間に駆け込んだ。


 「彰さん・・・」
 呆然と振り向く夕子。壁には部屋にあった父親の絵と僕にくれると言った絵が並んでいる。
 そして、天井の梁にはヒモが結ばれて垂れ下がっていた。それは父親の自殺した情景の絵と重なっている。夕子は絵を画きながら、毎日絵を眺めながら、ずっと後を追うことを考えていたんだ。
 僕はタックルのように夕子に飛びついて押し倒した。夕子は抵抗なく床に体を横たえる。
 「どうして・・どうしてなんだ!」
 激しく夕子の体を揺すったが、彼女の目は冷たかった。
 「涼子さんに聞いてご存知の筈です。お母様が亡くなりました・・」
 「だから?」
 「お兄様も涼子さんとお幸せです・・」
 「だから?」
 「これで、やっと自由になれました」
 「だから、何だって言うんだ!」 
 僕は夕子を抱き上げ、彼女のベッドに運んだ。
 乱暴に服を脱がせ、裸にした。やはり夕子は何の抵抗もしない。
 「私を抱きたいのですね・・」
 「違う、滅茶苦茶にしたいんだ。僕を裏切った夕子を!」
 自分も服を脱いで夕子に覆い被さったが、夕子が両手で押しのけようとする。
 「待って・・私が彰さんを裏切ったって・・」
 「そうじゃないか、夕子がいないと僕が駄目になると判っていて、僕を残して死のうとした。これが裏切りじゃなくて何なんだ!」
 思いがけない強い力で突かれ、壁に頭を打った。素早く夕子はベッドから床に逃げる。
 「だって・・彰さんは涼子さんから話を聞いて・・私を助ける為に・・」
 「違う、聞いたのは別荘から戻ってからだ。林の時には知らなかった」
 お互いに全裸のまま、ベッドの上と下で僕たちはお互いを見詰め合った。僕は泣いていたと思う。夕子を失う事が自分にとってどういうものか判っていたから。それは、会う前の何もない自分に帰る事だった。
 夕子は立ち上がってベッドにあがり、僕と向かい合った。
 「私が・・本当に必要だと・・」
 「ああ、そして、愛している。まだ信じてくれてないのか」
 夕子のキーワード、必要にされること。夕子には父親が自分を必要としていたのに裏切ったという負い目がつきまとっている。それと同時に、父親がいかに若菜家を愛していたかを知っていた。もし夕子が何もしなかったら、お母さんも俊一も後悔の虜になって立ち直れなかっただろう。二人が元気になるために夕子の下手な芝居が必要だったのだ。もちろん、二人とも夕子の笑わぬ瞳に気づいただろうが、逆に夕子を立ち直らせる為に信じている振りを続けた。
 お母さんが亡くなり、俊一が結婚して何もなくなったと思ったのだろうが、そうはいかない。最も夕子を必要としている僕がいるのだから。


 僕は話し続けた。小学校の経験、森尾の死、そして夕子に出会ってからの自分。夕子の心を自分の物にする為、自分を変えていった。夕子がいたから本当の自分に近づけたし、夕子を支えにして立ち直れた。一人でずっと生きてきた自分が、やっと夕子を知って人を求める事を知った。
 夕子からの初めての口付け。初めて夕子の眼に涙を見た。初めて・・僕たちはそれから愛し合った。


 夕子は聖和学園を退学した。今はマンションで僕と二人で暮らしている。若菜家を出て、今は長谷川の姓だ。式は挙げていないが、籍には入れた。
 夕子には手をつけていなかった父親が貰う筈の慰謝料と、若菜の母親の遺産が残されている。もちろんそんな物を当てにする気はないが、バイトをせずに大学へマンションから通えるようになった。
 これからどうなるかは判らない。でも、夕子にとっても終わりがあって始まりが開けた。違う、僕と夕子、二人の始まりだ。もし、これから先に終りと始まりがあっても夕子と二人なら乗越えられる。そう、僕たちは二人で一つなのだから