| 「鬼百合」
(1) 俺は雑兵どもを蹴散らして天守閣を駆け上った。 大手門を破られ、城内は秀吉の手勢で溢れている。最初から勝ち目のない戦いだった。 奴らが火を掛ける前に綾姫様だけでもお助けしなければならない。姫様はきっと奥座敷の隠れ部屋、間に合うだろうか・・
「待っておりました。菅ノ進」 襖を開けて入ると、部屋の中は血の海だった。奥方様、腰元達が喉、胸を突いて倒れ臥している。 その中央に白装束で足を紐で結んだ綾姫様が座っていた。 「よくご無事で・・姫様は命を掛けて必ずお守りいたします。さ、すぐに私と共に」 喜びで斬られた傷の痛みも忘れていた。姫は俺が来ると信じて自害を思いとどまられたのだ。 「生き恥を晒すつもりで残ったのではありません。最後に、お前に頼みたい事があったからです」 足の紐をほどこうと近寄った俺を姫は厳しい口調で止めた。 「武家の娘であれば自害を恐れません。ただ、せめて私が死んだ後、髪だけでも琵琶湖のほとりに埋めてくれぬか。私は湖が好きじゃ。離れたくない」 「姫様・・」 いつも笑顔を絶やされる事のなかった姫の冷たい言葉に俺は膝から崩れ落ちた。 姫は、琵琶湖への想いで俺を待たれていたのか・・ 「そして・・菅ノ進・・」 急に優しいいつもの声で、姫は頬を染めて俺を見つめた。 「私に・・口付けを・・」
耳を疑った。俺の秘めた想いを姫はご存知だったのか?ご主君明智光秀様のご息女として、大名に嫁がれる筈だった姫、身分違いの恐れ多い気持ちを哀れと思われたのか? 「お前が・・好きです。5年前、湖での舟遊びで水に落ちた時、お前が泳いで助け上げてくれた。あの時からお前のことばかり想っていたのです」 姫の手が震えながら俺の頬に伸びる。 「私も・・恐れ多い事ですが・・あれから姫の事を・・」 俺はその手を掴んで、姫を抱き寄せた。
あれは俺が15で姫はまだ10歳の頃だった。泳いでいる俺の首に両手を巻きつけ、溺れそうだったのに笑顔を見せた姫。 「この戦いで手柄を立て・・あの猿の首をとって、殿に姫様を私にと・・夢想しておりました」 「私も・・お父上様にお願いするつもりでした・・菅ノ進に嫁ぎたいと」 腕の中で姫は泣き笑いしながら俺を見ている。その細い肩を抱き、顔を近づけた。 目を閉じ、震えながら姫は両手を俺の背中に回して引き寄せる。 唇が触れ、求め合い、ひとつになった。
永遠に思えた時を部屋に忍び入った煙が動かした。遂にここまで火が回ってきているのだろう。 綾姫は私を押して離し、座りなおして懐剣を取り出した。 「もう、思い残す事はありません。菅ノ進、あとは頼みます」 さきほどの甘え、可愛らしさを捨てた、毅然とした態度だった。 「姫、私も一緒に行かせていただきます」 俺は剣を抜き、自分の首に当てようとした。 「いけません!お前は生きるのです」 姫の厳しい声が俺の手を止めた。 「私の分まで・・これは光秀の娘としての命令です!」 姫は懐剣を心の臓に突き刺した。声をたてず、そのまま前屈みに倒れ、白装束が赤く染まる。 俺は何も出来ずに見つめていた。 武士は泣いてはいけない。しかし、煙が目にしみて涙が止まらないのだ。
綾姫様、必ず仇は討ちます。俺は鎧を脱ぎ、姫の遺体を背中に括りつけた。
(2) 木漏れ日が空で舞う鳥の影を映している。 おそらくは比良山の林中だろう。 血が止まらず、体が動かない。 城を脱け出し、綾姫様の遺体を竹生島に葬った。 姫に死ぬ事を止められ、俺にはもう羽柴秀吉を討つことしか残されていない。 奴のいる京都への街道は警備が厳しく、落武者狩りは執拗だった。十人以上は斬り倒したが、深手を負った。何とか追っ手をかわして山に逃げ込んだが、どうやらここまでらしい。
光秀様が本能寺で信長を襲われたのは正しかったのだろうか? 家臣である父も兄も戦死し、奥方様も綾姫様も自害された。もう明智家の血筋で残るのは細川家に興し入れされた姉姫様だけだ。 山科の合戦で敗れ、光秀様は百姓に捕まり、秀吉に突き出されて刑死された。 何故、光秀様が謀反を起されたか、決して私利私欲の為ではない。 最初は、民百姓を苦しめる戦乱の世を治める為に田舎大名の織田信長に仕えられたのだ。 しかし、信長は鬼だった。民百姓を虫けらのように扱い、逆らう者には情け容赦がない。
これでは国が平定されても、悪鬼の支配する地獄と化してしまう。光秀様は国の行き先を憂い、主君殺しの汚名を覚悟して信長を襲われた。
もし相手が織田家の縁者だったら、殿は潔く投降されただろう。しかし、向かってきたのはおべっか使いの成り上がり者、羽柴秀吉だった。あの猿が天下をとれば国は腐る。殿は戦うしかなかった。 殿の無念を思うと、はらわたが煮えくり返る。殿は民百姓の為に戦われた。だから襲ってきた百姓を殺せずに捕まったのだ。そんな殿を民百姓は三日天下と嘲っている。
もう終わりらしい。目が眩んできた。 死ねば上空を飛ぶ鳥に啄ばまれ、虫と獣が死体を片づけてくれるだろう。 綾姫様との約束は守れなかったが、きっと許してくださる。 黄泉の国で、光秀様は俺と綾姫様の仲を認めてくださるだろうか。 お傍に・・今、お傍にまいります・・
(3) 光が見えた。目を開けていないが、まぶたに日が射している。 天井、窓、ここは家の中か・・俺は・・
「気がつかれました?もう大丈夫です」 心配そうに覗き込む若い娘、頭に奇妙な烏帽子を被っている。
「こ・・こ・・は・・」
「今は誰も住んでいない山小屋です。傷の手当てはしましたが、まだ暫くは動けないと思います」 顔を動かして体を見た。上半身に何層も包帯が巻かれている。不思議に痛みはない。
「お・・ま・・え・・は・・」
声が掠れ、舌が思うように動かない。
「名前ですか?私は百合です」
「俺は・・丹波・・菅ノ進・・たすけ・・て・・くれて・・」 「丹波様、まだ無理してはいけません。今はゆっくりとお休みください」
気遣うように百合は起き上がろうとした俺を抑えて布団に戻した。 綾姫様と目が似てるな・・そう思いながら俺は、また眠りに落ちた。
それからひと月近く、百合は朝早く小屋に寄って俺の食事と傷の手当て、身の回りの世話をしてから出て行った。百合の家は遠くにあり、薬草採りで生活をしているそうだ。
「何で烏帽子を被っているんだ?」
百合の治療と薬食のお陰で普通に話せるようになり、気になっていた事を聞いた。
「あ・・これですね・・」
百合は表情を硬くし、頭に手をやった。
「腫れ物で・・気にしないでください」
「人に伝染るのか?」
「そんな事、絶対ありません」
怒ったように百合は首を振った。おそらく病気で村八分にされているのだろう、地方では珍しくない。
「あの・・わたしも薬草採りの仕事があって・・ここと家を行き来するのは大変なんです」 いつものように朝食の後片付けを終え、小屋を出ようとした百合が躊躇いながら振り返って切り出した。すでに俺は小屋の周りを歩けるぐらいに回復している。
「すまぬ。長い間、面倒をかけた。もう一人でも大丈夫だ。気にしないでくれ」 百合にそう言って頭を下げたが、胸が苦しい。何故か綾姫様の顔が浮かんだ。
「違います・・ここにわたしも一緒に住めたら・・お世話も薬草採りも・・」
顔を赤らめて俯く百合は可愛いかった。確かに俺は今でも綾姫様を忘れていない。しかし百合に惹かれているのも事実だ。
「わけあって、夫婦になる約束は出来ないが・・」 「いいんです、丹波様はお武家様、そんな事は望んでいません」 手を伸ばすと、百合は嬉しそうな表情で俺の胸に飛び込んできた。 百合を抱きしめて横たえ、ゆっくりと重なった。百合は震えながらも健気に俺の背に腕を回して、されるがままになっていた。
(4)
若狭の冬は長い。一面が雪に埋もれ、俺と百合はいつも抱き合って暖をとった。 百合は寝ている時でも烏帽子をとらず、頭を触られる事も嫌がる。それ以外ではお互いの体に馴染み、俺は百合とここで一生暮らしてもいいと思い始めていた。
春になり、百合の献身的な世話で身体は完全に回復した。 百合の話からここが若狭の頭巾山麓だとは判っている。しかし、秀吉を狙う為に里へ降りる決意はつかなかった。
「あの・・ややが出来たんです・・」 夕食を終え、繕い物をしていた百合が恥ずかしそうに言った。 百合と俺の子が生れる。もし俺が死んでも丹波家の血が残る。 嬉しくて百合を抱き上げた。 「百合、もう俺の体は大丈夫だ。苦労をかけたが、狩りでも百姓仕事でも何でも出来る。お前は体を大事にして後は俺に任せろ」
「いえ・・それはいいんです。薬草採りはわたしの仕事ですから・・ただ、お願いがあります」
「何だ?何でもする」
「山の右手にある猫神の森、あそこには蝮がたくさんいます。危ないですから絶対に入らないでください」
「そうか、じゃあ他の所でウサギや猪を捕まえるよ。ややの為にも栄養をつけないとな」
「嬉しい、丹波様・・」 百合は俺の胸に顔を押し当てて泣いていた。
武士として鹿狩りや猪狩りの経験はある。俺は木を切り、蔓を使って弓矢を作った。 近辺に獲物は多く、食べきれずに余った肉は百合が里に持っていって米や野菜を交換をした。 子供が生れればもっと蓄えが必要になる。俺は狩りに精を出した。
その日は昼過ぎても獲物がなく、猫神の森近くの野原に回った。草陰から伸びている二本の角。今までで一番の大鹿だ。鹿は肉だけではなく角も高く売れる。 俺は渾身の力で大鹿を弓で射たが、鹿は矢が突き刺さったまま猫神の森に逃げ込んだ。
大鹿は森の中で死にかけているだろう。血の跡を追えばすぐに捕まえられる。しかし、百合には猫神の森に入らないと誓った。 他の林にも蝮はいる。その為の脛当て、防備は十分だ。確かに群れに入れば逃げるのは難しいが、あの大鹿はあまりに惜しい。注意すれば大丈夫だろう。 俺は森に入った。
初めて入る猫神の森は思ったより生い茂った草が深かった。大鹿も血の跡もまったく探しようがない。 獣道を慎重にかきわけて進んでいると、林が切れて泉に出た。
女が水浴びをしていた。穏やかな表情で長い髪を梳かしている。すこしせりあがった腹部。百合だった。しかし、頭に烏帽子はない。代りに二本の角が見えた。 百合は鬼だったんだ。俺は騙されて鬼を抱き、鬼の子の父になろうとしていた。鎌倉時代から続く丹波家に鬼の血など入れてはならない。俺は泉のほとりに歩み、正面から百合に矢を向けた。
「丹波様・・」
百合は俺に気づいて立ち上がる。それは毎夜抱いても見飽きぬ美しい肢体だった。
「よくもたばかったな!百合は百合でも鬼百合か!」 そう怒鳴りながらも、手が震えて矢が定まらない。 「やめて・・私のお腹には、丹波様のややがいます」 百合は庇うように両手を腹部に当てた。
「鬼の子などいらぬ、俺は人間だ!」 百合の顔色が蒼白となり、私を睨みつける。 鬼の本性か?違う、それは憎しみではなく、今までに見たことのない深い哀しみの表情だった。
「私だって、人間です!」
両手でお腹を庇い、目からとめどなく涙を流して叫ぶ百合に俺は構えた弓を下ろした。蟷螂の雌は子を孕むと雄を食べると聞く。百合は俺を油断させて寝首を掻くつもりではなかったのか。
「私達がどんな悪い事をしたんですか!角があるから魔物だ、獣だと言われて、殿様の自慢話の為にお父さまもお母さまも山狩りで殺されました。鬼の角って、削ると万能の薬になるんです・・あなたも私を殺して角を売ればいいわ。でも・・でもこの子だけは助けてください・・」
「俺は・・」
「そうです、鬼の子です!丹波様がいらなくても、私の大事なややです。私が立派に育ててみせます。この子がいなければ・・丹波様に殺されてもよかった。一人で生きていくより、大好きな丹波様に殺されるほうが・・」
俺は逃げた。何が何だか判らずに、森の外へ走った。 一度は死んだ命を助けてくれたのは百合だ。ずっと看病をしてくれ、治った今でも献身的に世話を焼いてくれる。 俺は・・綾姫様の顔を忘れるくらいに百合を愛し、溺れていたじゃないか。そして、二人の愛の結晶が宿った。何故、あんな優しい、美しい百合の頭に角があるんだ。
山小屋に百合は帰ってこなかった。秋になり、俺は諦めて里へ降りた。
(5) 北陸の柴田勝家が秀吉と戦う。村で聞いた話は俺を奮い立たせた。 光秀様は柴田にとって主君の仇、正室のお市の方には兄の仇となるが、近侍の一人に過ぎぬ俺の事までは気にされないだろうし、秀吉を憎む気持ちは同じだ。 俺は勝家の家来で父と懇意にされていた久田様を訪ね、配下に加えていただいた。
合戦で重要とされるのは数と地の利だ。この点で柴田軍が劣ったわけではない。しかし、本当に勝敗を分けるのは流れだろう。 秀吉軍に正義はない。それでも勝ち続けるのは、負ける筈がないという軍の自信だ。優位な戦術も野卑な勢いで潰され、敗退が続いた。 勝家とお市の方も綾姫様と同様に城を枕に自害し、俺はまた落武者となった。
京や大阪の警備が厳しいのは判っている。
俺は薬売りに身をやつして追っ手から逃れた。 富山に入り込み、薬問屋で百合に教えられた薬草の知識を披露して鑑札を手にした。 おそらく、次に秀吉と戦うのは徳川家康だ。しかし、あの狸は絶対確実な機会がくるまで動かないだろう。それならばこちらも、それまでじっくりと待つしかない。
富山と各地を往復しながら、但馬で薬婆さんの噂を聞いた。 偏屈で山奥に一人暮らしをしているが、この婆さんの薬があればどんな病気も治ると言う。 薬売りは、売るだけではなく仕入れも仕事の内だ。俺は里で家の道を聞き、訪ねていった。
「わしらぁ、誰が殿様になろうと関係ないわい。戦がなくなりゃあ、それでええ」
日高の村を十里も奥に入った一軒家に住む老婆は、久し振りの話し相手に喜んだようで秘蔵の薬を取り出した。 「これはなぁ、何でも治す薬じゃ。富山でも売っておるまい」 「何の薬草だ?」 「草じゃねぇ、鬼の角を削ったもんじゃ」 頭に血が昇った。鬼の角?まさか、百合では・・ 「婆ぁ、どうやって手に入れた!」 俺は懐の短刀に手をやって老婆を睨みつけたが、老婆は面白そうに笑っていた。
「ほほぅ、どうやらあんた、鬼と関わりがあるようじゃね。普通なら冗談と笑うか、欲にかられて身を乗り出す。怒る男は初めてじゃ」 「答えろ、鬼を・・殺して手に入れたのか?」 「鬼はのぉ・・悲しい宿命に生きておる」 老婆は俺の怒りを柳に風と受け流し、ゆっくりと話し始めた。
(6) 「まず、あんたの質問に答えようかね。鬼は死ぬと家族が角を切り取る。何故か判るか?角のままでは極楽が受け入れてくれぬ。地獄に言ったら、地獄の鬼の仲間と間違えられる。じゃから、死ぬと角を切って人と同じになるのじゃ。そして、家族は角を里に持ってくる。これで人の病が治って役に立てば、死んだ家族の供養になるとの・・」 俺は、短刀から手を離した。この婆さんは嘘を言っていない。 「鬼とはのぉ、わしの先祖からの言い伝えによると、人を守る為に角を与えられた同じ人なんじゃ。大昔、武器を持たぬ人は獣に襲われ滅びかけた。それで、獣の角や牙に立ち向かえる鬼が生まれたのじゃ」
遠くから声が聞こえる。婆さんも気づいたようにちょっと耳をすましたが、そのまま話を続けた。 「鬼は、角を使って命懸けで獣から人の村を守った。じゃが、人は武器を作り出し鬼に守られる必要がなくなった。そして自分達と違い角のある鬼を毛嫌いし始めた。鬼は人ではない、角があるから獣だとな。必要とされなくなり、邪魔扱いの鬼は山奥へ入った。するとなぁ、人は大事な物を失ったのに気づいたのじゃ」 「何だ?それは」 「角じゃ。万能の薬じゃ。それで貴族は武士を山奥に行かせて鬼を殺させ、角を手に入れた。鬼を悪逆非道な悪霊と民にうえつけ、鬼を殺した武士を英雄とした。昔の天皇が長生きだったのは、鬼の角のおかげなんじゃ」 記録によれば数百年も生きた天皇、その天皇に鬼征伐で取り立てられた武家の起こり、その末が俺たちなのか。
「婆さん、教えて欲しいんだが・・」 俺は百合の事を話そうとしたが、その時に裏の方から女の子の唄が聞こえてきた。
おかあさま
もりのむこうになにあるの
おおきくなったらいけるかな
あのやまにのぼれたら
しおのみずうみみえるかな
わたしはおにのこ
ひとりっこ
うささんさるさんはしろうよ
けさはとってもいいてんき
くもさんどこにいったかな
あそびにきました
おばあちゃん
かたをたたいてあげましょう
あしをもんであげましょう
おかしめあてじゃありません
わたしはおにのこ
ひとりっこ
ちゃんとはみがきしています
ごはんもおいしくつくれます
つのがながくなったなら
おとうさまにあえるかな
裏木戸から現われた女の子の頭には短い角があった。
(7)
「お客様?」
女の子は、私を見てにっこり笑いお辞儀をした。
「ああ、弥生のかか様が採った薬草を買いに来られたんじゃ」 女の子は珍しそうに私の頭を見る。
「お母様がおっしゃったように、男の方には角がないのね」
「はぁはは、この子はわし以外の人を見るのは初めてなんじゃ。わしは年寄りだから角がなくなったと思っとる。まぁ、里の嫁は鬼婆と呼んどるそうじゃから当たっておるかもしれん」
その子を一目見た時から判っていた。 「おいで、弥生」
私は女の子を手招きし、肩に手を置いて覗き込んだ。間違いない。百合の瞳と同じだ。
「お母さんは?」
「家で機織をしている」
「お母さんの名前は・・百合といわないかい?」 「お婆ちゃんに聞いたの?」 弥生は驚いたように俺の顔を見てから、視線を婆さんに移した。婆さんはゆっくり首を横に振る。 「じゃ、どうして?」 「それはね、弥生、俺がお前のお父さんだからだよ」
お前を、俺はいらないと言った。 お前がお腹にいたのに、俺は弓で百合を射ようとした。 俺の子、百合と俺の子。弥生、何て素直そうで可愛い子だろう。百合は一人で立派に育てると言った。 百合、こんなにいい子に育ててくれたんだな。 「お父様ぁ・・本当にお父様なのね・・」 弥生は俺に抱きついて激しく泣き始めた。 「会いたかったよぉ・・弥生、お母様の仰る事をきいていい子にしてたから・・だから帰ってきてくれたんだよねぇぇ」
婆さんは目頭を拭いてから部屋の中に入り、暫くするとお茶と菓子を盆に持って縁側に戻ってきた。 「あんたが鬼の角で怒った時、誰かに似てると思うた。弥生はあんたの子じゃ、似ておる」 「弥生は・・母親似ですよ・・目の綺麗なところなんか」 泣き止んだ弥生は俺の胸から離れると、今度は満面の笑みで顔を輝かせて俺の手を引いた。 「お父様、お母様も喜ぶわ。早く家に行きましょう」 「弥生・・お父さんはね・・お母さんに会えないんだよ」 弥生は驚いたように口を開けて俺を見た。婆さんも厳しい顔を向ける。
「もう、嫁さんがいるのかえ?」 「違う・・俺は、百合が鬼と知って、百合を殺そうとした。弥生がお腹にいたのに。そんな人でなしの俺に百合が会ってくれる筈がない」 「あんたは、まだ鬼が判ってないんじゃな・・」 婆さんは呆れたように言って溜息をついた。 「わしらの先祖も鬼狩りをやった。角を売る為じゃ。しかし、何体もの鬼を殺した先祖は鬼狩りの仲間が仕掛けた罠に誤って落ちてしもうた。死にかけている先祖を、生きている鬼が仲間に自分を殺させて角をとらせ、その仲間が薬にして飲ませてくれたおかげで助かった」
まだ話が難しくて首をかしげる弥生に婆さんはお菓子を差し出し、弥生は嬉しそうにお辞儀して口に運んだ。 「わしらは、その先祖から自分達を鬼友と名乗っておる。しかし、わしが最後じゃ。息子は嫁の尻に敷かれておるから、知ったら鬼狩りをやりかねん。鬼も、わしの知る限りでは、残っておるのは百合と弥生だけじゃ」 婆さんはいとおしむように弥生の頭を撫で、角をさすった。 「鬼は、憎んだり恨んだりする事を知らん。助け、愛し、優しく尽すだけじゃ。百合と暮らして、それが判らんかったのか?」 その通りだ。あれだけ尽した俺に殺されそうになっても、百合は弥生の事しか言わなかった。
「弥生、お母さんの所へ連れて行ってくれ。お母さんがいいと言ったら、一緒に暮らそう」 俺は、辛抱強く呼ばれるのを待っていた弥生の手を取って言った。 「どうして?お母様、喜ぶに決まってるわ。じゃ、これからずっと一緒なのね?お父様と一緒に暮らせるのね?」 弥生は私の手を振りほどき、ばんざいをしながら何度も飛び上がった。 「一緒、一緒、これから一緒。お父様と一緒。お母様も一緒。三人一緒。ずっと一緒!」
百合も弥生も鬼じゃない。いや鬼が鬼じゃないんだ。人が鬼なんだ。 信長や秀吉、百合の両親を殺した領主達、俺も戦で多くの兵を殺めた。 人を殺すのが鬼だ。百合や弥生こそが本当の心優しき人なんだ。 鬼の角こそ、命を捨てても他人を守ろうとする、本当の人である証だったのだ。
「お父様、こっちよぉ」 婆さんにまた来る約束をして弥生と山に入った。 百合に会いたい。会ってあやまり、抱きしめたい。もう、一生離さない。 山小屋での出来事が細かい部分まで思い返される。俺は心底、百合に惚れていたんだ。 はしゃいで飛び回る愛しき娘の弥生と一緒に、俺は一歩づつ百合に近づいている。
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