| 「鬼灯」 (1) 道に迷ったらしい。 君尾山を目印に並行して歩いていたが、林を抜けると山地の形がまるで違っている。山道は進むにつれて細く、荒れていった。 分かれ道に戻るとすれば1時間。それから舞鶴市まで3時間歩いて、着くのは夜の9時過ぎになるだろう。それでも野営よりはましだ。夏の汗ばむ陽気も夜になればうって変わって冷える。 まだ夕暮れには早いが、夜になって月明かりを歩くには足元が悪すぎた。これで夕立にでもあったら道から滑り落ちる危険性もある。山歩きの鉄則は無理をしない事だ。 僕が決心して踵を返した時・・ 雷!! 大音響とともに林が揺れた。 咄嗟に伏せて頭を庇う。何かが回転する音がして、止んだ。 空は?晴れている。青く澄みわたり、小さな白い雲が少し見えるだけだ。 音は後ろから。つまり、さっき進んでいた方角。 かなり近い。隕石だろうか? 僕は確かめるために先へ進んだ。 事故の現場は、音を聞いてから15分くらい歩いた場所だった。 岩場と木々の間の狭い道。 フレームが曲がり、無惨な形に変形しているバイク、狭い草叢に倒れているライダースーツ。 おそらく、放り出されて岩で身体を打ち、そのまま転げ落ちたんだろう。 山には昔からの不文律がある。会ったら挨拶、助け合う。初対面でも山では仲間。 リュックを下ろしてライダーに近寄り、身体を仰向けに動かした。 心臓の位置に手を置いて鼓動を確認する。柔らかい盛り上がり、女性だ。まだ生きている。 ヘルメットを外そうとして何かが引っかかった。メットから5センチくらいの角が二本伸びている。持ち上げる形でメットを取ると、まだ若い女性の顔が現われた。 今度の山歩きは最低限度の装備だが、薬は必需品として持ってきている。リュックからシートを出して下に敷き、女性を寝かせた。 ライダースーツは数ヶ所破れ、背中全体に擦った跡がある。前のジッパーを下ろして脱がせた。 下は黒のブラとショーツだけだった。白い肌は擦り傷や打撲でほうぼうが赤く腫れている。 女性の呼吸が乱れた。肺が苦痛で圧迫されている。僕は女性の口に息を吹き込んだ。 「ちかーーん!!」 次の瞬間、僕は突き飛ばされて地面に倒れ、黄色い声が木魂して林全体に響く。 痛みを堪えて上半身を起した僕を燃えるような目で女性は睨みつけていた。 「ケダモノ!私に何をしようとしたの!」 「人工呼吸・・」 自分でも間が抜けた声だと思う。強い言葉で責められると逃げたくなる。 「服が・・何で・・」 下着だけなのに気づいたらしく、女性は慌てて立ち上がろうとした。苦痛の呻き声を出して体を折る。 「私・・どうして・・」 荒い息で背中に手を回そうとする。そこが一番痛いのだろう。 「バイクで事故ったんだよ。だから・・傷の手当てで服を脱がせたんだ。決して変な気持ちじゃない」 女性は壊れたバイクを見て、戸惑ったような表情に変わった。 「息が苦しそうだったから人工呼吸をしたんだ。これを・・」 僕は手に持っていた塗り薬を女性に差し出した。 「触られるのが厭だったら自分で塗ればいい。僕は・・山男として見逃せなかった」 女性は薬を受け取り、眉を顰めた。痛みでなのか驚きなのか判らない。ちょっと複雑な表情だ。 「助けてくれたの・・」 「近くに村か家はない?人を呼んでくるよ」 もう日が沈みかけている。暗くなったら不案内の自分では身動きが出来なくなるだろう。 この女性の命に別状がないと判れば、僕の役目は終わりにしたい。 「村まで歩いたら4時間ね・・」 「そんなに?」 「あなた・・ここがどの辺りか知らないのね・・」 薬を傷口に塗りこめながら馬鹿にしたように言う。僕は女性から薬を取り上げた。 「何よ・・」 「背中は塗れないだろう。ちょっとだけ我慢してくれ」 女性の後ろに回って腫れに塗りつけた。薬瓶の中は半分近くに減っている。大事な薬なのでつらかった。 「10万あげる・・」 「何だって?」 意味が判らずに聞き返した。後ろ向きなので女性の表情は見えない。 「私を家まで運んで・・そしたら10万あげるわ。悪くないでしょう・・」 「家までどれくらい?」 「私の足で30分・・」 背中を塗り終わり、上着を脱いで彼女の身体にかけた。 もう暗い。これから寒くなるだろう。 前に回り、屈んで背中を向ける。 「乗れよ」 僕の服を苦労しながら着ているのだろう。衣擦れの音がした後に背中へ柔らかい体が押し付けられた。 (2) 僕は登山家じゃない。山頂は通過地点に過ぎず、ただ山の中を歩くのが好きだった。 大学4年の夏休み、就職先が決まってない学生は目の色を変えて企業訪問をしている。 僕も休み前に何ヶ所か面接を受けた。どこも落とす学生として真っ先に僕の名を消しただろう。 何の為に働くのか。企業は戦力として雇いたいらしい。会社の利益の為に働く、それにどういう意味があるのか判らなかった。 大江山から比良山地を回り、比叡山から京都に入るという計画も漠然としており、地図も25万分の1縮尺の近畿全般1枚ものしか持っていない。 僕が道に迷ったのは確かだが、それほど気にしていなかった。街と違って山では磁石があれば何とかなるし、大体の事は体験している。 女性の体重は50キロないだろう。山歩きには軽装と決めているが、場所によって重装備の時もあるし、この旅行の為のバイトで引越しの力仕事をしていた。 それでも足元が暗い道から草原に出て、女性の家に着くまでの1時間は重労働だった。 何かが変だ。 女性を部屋に運び入れ、ベッドに寝かせた。 机の中の薬が欲しい言うから、引出しを開けて薬瓶を取り出して渡し、炊事場からコップに水を入れて持ってきた。疲れと熱でもうほとんど話せない状態のようだ。 薬と水を飲むとそのまま眠ってしまった。 何がおかしい? 外から見ればいかにも年代物の一軒家だが、家の中は現代的に改造されている。 部屋の置物、キムタクとかV6のポスターから考えて、女性は思ったより若いのかもしれない。 寝顔は可愛いな。つい、僕らしくもなく女性の顔に見入った。 中途半端に染めた髪は赤と黒がまだらになっている。顔を洗ってないから化粧の跡が少しみっともない。でも、顔立ちが整って可憐な感じがする。 僕は誘惑に抗しきれず、手を伸ばした。 スベスベして吸いつくような手触り。これは何なんだろう? 大江山で鬼の絵を見た。これが鬼の角だとすると、この女性は鬼なのか? 女性が身動ぎをし、慌てて手を放す。手のひらに残った感触が気持ちよかった。 奥座敷には絨毯が敷かれ、いかにも少女趣味の花柄プリントのカバーが掛けてある大きなソファがあった。許可はもらってないが、今夜はここで寝ることにしよう。 おかしな事・・ 彼女の薬瓶は色は違うが、僕の持ってる薬瓶によく似ている。亜希子さんからもらった丹波の薬。 でもこの近くが丹波だ。別におかしい話じゃない。 とにかく、おかしいのは彼女だ。とんでもない山道でバイク事故を起すし、こんな人里離れたところで一人暮らしをしている。 あの場所から村まで4時間なら、最低でもここから3時間の距離があるという事になる。 角は・・ともかく、この家も彼女もどこかおかしい。アンバランスだ。それにしても、よくこんな所に電気が通じているな・・水道もあるし、電話もある。 明日になったらあの場所に置いてきたリュックを取りに戻って舞鶴に降りようと思い、蛍光灯を消して目を閉じた。 一番おかしな事、それは・・やっと糸口に近づきかけて、僕は眠りに落ちた。 (3) 「私、朝はパンとハムエッグなの。覚えといて」 少女はベッドの上で僕が作ったお粥をきれいに平らげた後に文句を言い出した。 「もういいだろう?明日の朝なんて僕には関係ないよ」 椅子に腰掛けて彼女を眺めていたが、髪を洗い、化粧を落としてパジャマ姿の彼女は、どうみてもかなり年下だ。 「あんな所で迷ってるんですもの、どうせ暇なんでしょう?暫く雇ってあげるわ」 「あのね・・」 この子は自分を何だと思っているんだろう?見下すような目で勝手な事を押し付けてくる。 可愛いのは寝顔だけだ。 「日当、1万払うわ。10日で10万、昨日の分と合せて20万よ」 「何で10日なんだ?」 「28日に村から運んで来て欲しいものがあるの。その時にボーナスもつける」 僕は椅子から立ち上がった。 この子の方が正しい。人は金を稼ぐ為に働く。旅行資金の為にバイトをしたし、親は一生懸命に働いて僕を育ててくれた。労働の対価として金を得る。当たり前の事じゃないか。 「悪いが、大学最後の夏休みを下僕のバイトで潰したくない」 「そう、いいわよ。私にここで死ねというのね。そしたら化けてでてやるから・・」 少女は不貞腐れてベッドの上に胡座をかいた。 「もう、体は治ったんだろう?」 あまり元気がいいので忘れていたが、昨日かなりの傷を負ったんだった。 「そんなに早く治るわけないじゃないの!」 言われてみればそうだ。まさかパジャマを脱いで証拠を見せろとは言えない。 僕は、本当にここを出ていきたいのだろうか?少女は生意気だが、困ってる人を見捨ててはいけない。それに報酬がついているからというのは、断る理由にならないだろう。 判った、おかしな理由。僕はここにいたいんだ。何故か、自分の家のようにこの家が好きになっている。 「仕方ないな・・大学が始まるから29日が限度だよ。それまでに身体を治してくれ」 「その手伝いをするのがあなたの役目でしょう」 憎まれ口を叩きながらも少女の顔は明るくなった。 (4) あかりから亡くなったご両親の部屋を宛がわれた。調度品は片づけられたのだろう、旅館の一室のように広いだけでほとんど何もなかったが、落ち着ける。 下僕契約が成立して、僕とあかりは自己紹介をした。 「名前は西条道夫。北九州市立大学4年だ。最後の夏休みで好きな山歩きをしている途中。就職はまだ決まっていない」 「私は・・丹波あかり、職業はオンライン作家よ」 「幾つなの?」 「17才、もうすぐ18だわ」 「どんな小説を書いているんだい?」 「見せるわ、来て」 それから少女は僕の手を引き、まだ入っていない別の部屋に案内した。 別に足はふらついてないし、怪我をしているようには見えないのだが・・ その部屋は器械の倉庫だった。中央に大型テレビと間違えそうなモニターがあり、いかにも高そうなパソコンが設置されている。あかりはセットして画面にワードを出した。 「部屋のノートをいつも使ってるんだけど、仕事用はこっちなの。見てみて」 少女小説など読んだ事はないが、言われて僕は画面を覗き込んだ。 『蕩ける花芯の蠢き』 作 鬼灯 (22) もっとぉ〜〜!! 奥に〜〜!!!! 激しく腰を揺すリ、洋子は高志の・・・ 僕は絶句して目を逸らした。とても女性の前で読める内容じゃない。もっとも、その女性が作者らしいが・・ 「会員になれば千円で読み放題なの。月に50万は振り込まれるわ」 狼狽している僕に気づかないのか、あかりは胸を張って自慢した。 「鬼灯か。しかし、よくこんなのが書けるな・・」 「あら、ちゃんとほおずきって読めるのね。よくおにびとか、きとうって言われるわ」 「山が好きだから植物には詳しくなるよ」 あかりを知るにつれて違和感が深まる。彼女はどこかがアンバランスだった。いや、全てがおかしい。無垢な少女の面を持ちながら、こんな小説が書けるほど経験豊富なんだろうか。 「あのね、ネットの成人向け小説を細分してデータ化したの。結局、数パターンにしかならないんだけど、表現を組み合わせると新作が完成。次々に新しいデータが増えるからいくらでも続けられるわ」 「それで月収50万なんだ・・真面目に就職するのが馬鹿らしくなる」 「そうよ、時間と自尊心を売って会社の言いなりに利用される。何かあったら切り捨てでしょう?会社員って自意識のない奴隷と同じよ」 基本的に賛成だが、17才で処女のポルノ作家に言われて納得してもいいのだろうか? 「その角は鬼灯のペンネームに合わせるてつけたの?」 僕は前からの疑問を思い出して聞いた。女性の流行には疎いが、角をつけるのは暴走族のヘルメットか鹿島アントラーズの帽子くらいだろう。 「あ、これね・・ネットで角を購入してアクセサリーで着けたんだけど・・接着剤が強力過ぎて頭から離れなくなったの。みっともないかしら・・」 あかりは庇うように角を抑えて答えた。少し声が震えている。 「いや、あかりに似合うし可愛いよ。何だか見慣れてしまって当たり前のように思っていた」 「そう?褒めてくれてありがとう」 その時のあかりの笑顔は、今までで一番可愛かった。 それから僕は昨日の事故現場まで行ってリュックを回収した。 バイクは完全にオシャカで諦めるしかない。 (4) どうして気づかなかったんだろう? 裏の倉庫を見て、僕はこの家で落ち着く理由が判った。 まるで薬を吸ったみたいに陶然としてしまう。もっとも、その倉庫にあったのは薬そのものだったが。この家全体が薬の匂いに包まれていたのだ。 「丹波の薬というのは、丹波地方産という意味じゃないの。私の家の薬で作った薬なの」 あかりは、あっさりと僕の疑問に答えてくれた。 「先祖代々の薬屋で贔屓のお客さんも多かったわ。でも、パパとママが死んで廃業。跡を継ぐ気はないの」 「勿体ないなぁ、いい薬なのに」 「いろいろと面倒な法律もあるしね。でも、よく持ってたわね。道夫から渡された時には驚いちゃった」 「いつも山では持ち歩いていたよ」 そして、時々嗅いでいた。亜希子さんを思い出しながら・・ 下僕の仕事としては、掃除、洗濯、炊事の他にお使いがある。 3日が経つと、あかりもTシャツとGパンでパソコン相手に仕事を再開し、僕は村の郵便局まで荷物をとりに降りていった。 「あかりが教えてくれた空家まで1時間。麓の村までそれから2時間。帰りは荷物を持っての上り道だから5時間で往復8時間かかった。これは問題じゃないか?」 荷物を居間で嬉しそうに広げるあかりに、僕は皮肉混じりに言った。 山歩きの僕でこれだ。いくら慣れていると言ってもあかりならもっと時間がかかるだろう。 「だからバイクを買ったの。空家に置いておいて村の往復に使うつもりだったわ」 持ち主が亡くなった後、空家はあかりのご両親が買い取っている。 それまではその家を中継にして生活物資を手に入れていたらしいが、今は村の郵便局に頼っているようだ。 あかりはネットで注文し、郵便局止めで欲しいものを手に入れている。 丹波家の人嫌いは村人も知っていたが、そっとしておこうという好意的な雰囲気を感じた。 「僕は君のご両親についてどうこう言う気はない。人里離れて家も秘密にするというのは、それなりの理由があったと思う。しかし、あかりまで同じように閉じこもる必要はないじゃないか」 「私はパパとママみたいな生き方はしない。でも、ここから離れないわ。ネットで友だちは出来るし、物も買える。村に行くのも月に1回くらいよ。これで満足、何の不満もないの」 「あかり、人は一人じゃ生きていけないんだ」 「うるさいなぁ、年上だからって威張らないでよ。道夫のお節介!」 遂に切れたらしく、あかりは大きな声を張り上げた。 「本当に心配して言ってるんだ」 「何よ、私は自分で稼いで生活してるわ。道夫なんて就職も出来ない脛かじりじゃないの」 あかりは拗ねてそっぽを向く。確かに、僕では説得力に欠けるだろう。 「せめて空家に住んだらどうだ?あそこなら車の免許を取って村に行けるし、舞鶴もすぐだ」 少しづつでもあかりを社会に慣れさせたほうがいい。 彼女はテレビとネットの情報だけで何が一般的か判らず、妙な服を買ったり髪を染めたりしている。誰もいないし、勝手でしょうど言われれば、センスの悪さを責められない。 「道夫、車に乗れるの?」 「ああ、免許は持ってるけど」 パソコンと車は就職の必要技術だ。3年の時にバイトの金で教習所に通い、免許は持っている。 「車、乗ってみたい!ねぇ、何とかならない?」 さっきの膨れ面を忘れたように目を輝かせていた。 「それは・・舞鶴まで行けばレンタカーが借りれると思うけど」 「お願い!私を車に乗せて。ボーナスを出すから」 百聞は一見に如かずだ。これはいいきっかけになるかもしれないと思った。 「じゃ、明日の朝、村から舞鶴までバスで行き、空家に車を持ってくるよ。えーと、3時までには戻れると思う」 村から舞鶴までのバスは2本だけだ。間に合うようにバスに乗るには、6時前にここを出なければならない。 「本当ね、嬉しい!」 あかりははしゃいで飛び上がり、僕に抱きついた。 「あかり・・」 唇にあかりの唇が押し付けられる。思わずあかりの肩を抱こうとしたが、すり抜けられた。 「ふふ、お礼の前払い・・」 おどけて言うあかりの表情はぎこちない。 「うん・・」 僕はあかりの部屋を出て、自分の部屋に戻った。 (4) 舞鶴駅前で借りたパジェロは快適だった。 周辺を走るだけの予定が、琵琶湖を見たいというあかりの要望で国道27号線を走らせる事になった。 あかりは酔ったように車からの景色に見とれている。 「どうした?」 あまり黙り込んでいるので話し掛けてみると、あかりは喜びを顔一杯に現わせた。 「うん・・とても・・何と言っていいか判らないわ・・あのね、テレビの中にいるみたい。いえ、立体映画かしら・・みんな、本物なのよね・・」 ご両親が亡くなるまで、あかりは空家しか行った事がなかったそうだ。 車に乗るのも街を見るのも初めてらしい。 「降りて歩いてみる?」 「いや、それは駄目!」 僕の提案に驚いたらしく、あかりは帽子を押さえて激しく首を振った。 「道夫以外の人と話したくないの。人込みは嫌い」 あかりにとって、僕は特別なんだ。と言うよりも、僕しか知らない。 まだ数日しか経っていないのに、僕を好きになったのだろうか。昨夜のキス、17才の女の子が外から遮断されて一人暮らしをしている。 舞いこんだ僕を相手に恋の錯覚を抱いても不思議じゃないだろう。 琵琶湖沿いの今津町に着いた頃には日が落ちていた。 車にあかりを残してコンビ二に入り、弁当や飲物を買い込む。ありふれた物もあかりにとっては珍しく、大喜びだった。 車を北に走らせたが、さすがに身体が疲れた。 「あかり、あそこに入っていいか?」 僕は道脇に止めて、先にあるモーテルを指差した。 「あそこなら誰にも顔を会わせずに泊まれる。何もしないと誓うよ」 「回転ベッドとか、ガラスで見えるバスがあるかしら?」 あかりは目を輝かせて僕を見る。 「やけに詳しいな」 「忘れたの?私は有名なオンラインポルノ作家よ」 こういうのも耳年増と言うのだろうか。 ホテルの部屋にはあかりの望む物が全部揃っていた。おまけにカラオケやテレビゲームまである。 「ねぇ、疲れたの?」 ソファの位置から浴室は見えない。ローブに着替えたあかりが僕の前の椅子に腰かけた。 「うん、あまり運転は慣れてないから。でも休んだから大丈夫だ」 「道夫のこと、聞いていい?」 もともとスタイルがいいのに、こういう場所だと色気も感じたりする。せめて足を組むのはやめて欲しい。 「別に話すようなことはないけど」 何となく、聞かれることの見当はついた。 「好きな人はいないの?」 「今はね・・」 そう、今は誰もいない。亜希子さんとは会えないのだから。 自分でも呆れるくらい僕は平凡な存在だ。今まで目立った事はないし、これからもないだろう。 もし、人と違う部分があるとすれば、趣味の山歩きぐらいだ。 一人で何も考えずにひたすら歩く。何の目的もなく、ただ歩くのが好きだった。 何の才能もないし、何かになりたいという目標もない。北九州市立大学を受験したのも親が豊かじゃないから公立で合格圏内を狙っただけだ。 入学して下宿生活になると、時間はいくらでもあった。近くの山を歩き回り、亜希子さんと出会う。 「亜希子さんは絵が趣味で景色や山の花をスケッチしてたんだ。僕達は待ち合わせて一緒に山を歩くようになった。亜希子さんが絵を描いている時は、ずっと彼女の顔を見てたよ。それだけで幸せだった」 「どうして別れたの?」 「亜希子さんには家庭があった。知り合いに僕と一緒の所を見られたらしいんだ」 「それで?」 「山歩きを禁止されたんだ。亜希子さんは、僕の部屋にもう一緒に行けないと言いにきたよ」 「そういうのを不倫って言うのよね」 面白くなさそうに冷蔵庫から引き出したウーロン茶を飲んでいる。 「そうかもしれない。その時、亜希子さんを抱いた。僕達は禁止されなかったらいい友達でいられたんだ。お互いに気持ちを秘めて。でも、もう会えないと判ってどうしょうもなかった」 忘れた筈なのに、あの日の亜希子さんが心に蘇る。そして、最後にもういらないからと丹波の薬をくれた。 「ふん、道夫は年上好みなのね」 「そうかもしれない」 僕の素っ気ない返事に気分を壊したらしく、僕をにらんでベッドの方へ行く。 僕はソファに横たわり、そのまま眠りに落ちた。 (5) 翌朝になっても、あかりの機嫌は悪かった。 ホテルを出て湖北町に回り、竹生島を眺めてから木之本で北陸自動車道に入る。 約束の琵琶湖を回って京都に寄り、舞鶴自動車道で帰るのが僕の計画だった。 彦根を過ぎた辺りで、前のチェイサーがふらついているのに気づいた。距離を置いて後ろにつく。 「どうしたの?」 僕の緊張に気づいてひかりが聞いてきた。 「いや、ちょっと前の車が・・」 途端に、ガリガリという厭な連続音が響いた。中央を避けるように側道に寄ったチェイサーが、ガードレールを擦っているのだ。。 僕は急ブレーキで車を側道に止めた。他の車は気が付かないのか追い越し車線を走り去る。 ゆっくりとチェイサーはせり上がり、スローモーションのように車体を裏返しにして落ちた。 ガシャーンという大音響と共にガラスの破片が飛び散り、異臭が広がった。 「あかり、警察に電話だ!」 僕は携帯をひかりに投げて車を出た。 助けなければならない。走って駆け寄り、ドアを引っ張って頭を下にしている男と8歳くらいの女の子を連れ出した。 「道夫・・」 複雑な表情であかりが覗き込む。 「二人とも大丈夫だ、呼吸をしている」 しかし、強く頭を打ったらしく、二人とも血が流れている。 「救急車はすぐに来るわ」 あかりは震えながら僕に黒い瓶を差し出した。最初の日に机から取り出した丹波の薬。 「これ・・」 「判った」 ひかりの手から瓶を受け取ると、まず口に含んで子供の口に流し込んだ。次に残りを男の口に。酒の匂いがした。 「どうした、大丈夫か?」 あかりの後ろに好人物そうな中年の男性が立っていた。 「どうやら酔っ払い運転です。急ぎますので、後をお願いできますか?」 もう大丈夫だろう。そう思うと一刻も早くここを離れたかった。 「後って・・」 「救急車がすぐに来ます。あなたが助けた事にしてください、では」 僕はあかりを促がし、車に戻った。サイレンが聞こえる。チェイサーと呆然としている中年の横をすり抜けて大津に向かった。 「どうして救急車を待たなかったの?」 京都を過ぎて、一人で考え込んでる様子だったあかりがやっと話し掛けてきた。 「いろいろと調べられるのは厭だろう」 「私の為?」 「僕も厭だよ」 あかりの事を言えない。僕も周りから協調性のない人嫌いと思われている。 目立ちたくなかった。一人できままにするのが好きだった。 「あの薬ね・・」 口ごもってあかりは言葉を止める。 「何だ?」 「私の・・ママの角なの・・」 渋滞に巻き込まれた。高速から降りた方が早いかもしれない。 「私の角もくっつけたんじゃない。生れた時からある本物よ。私・・鬼なの!」 車は完全に止まった。これからは小刻みなノロノロ運転になるだろう。 「触っていいかい?」 虚をつかれたようにあかりは口を開けたが、僕が真面目なのを見ると頷いた。僕は手を伸ばしてあかりの頭を引き寄せ、帽子をとって角を撫でた。すべすべした感触。あかりは僕の肩にもたれ、動かなかった。 「よかったよ、この可愛い角が作り物じゃなくて。もう角のないあかりは想像出来なくなっていた。ずっと触りたかったんだ。この角に」 「道夫・・」 あかりは僕の僕に抱きついて泣き始める。シートベルトを外せばいいのに・・ 僕も気づいていた。あかりを愛していること。もう離したくないと思っていること。鬼であっても。 (6) 空家に着くまで、あかりはずっと話し続けた。獣から人を守る為に生れた角のある人。鬼と呼ばれて嫌われ、角が万能薬になるため狩られた歴史。 「私たちは最後の鬼の家族だった。大好きだったパパとママ、でも鬼は人間を守るものだ言って・・冬山で遭難した人達を助けに行って帰ってこなかった。春になって、パパとママの死体を見つけ、ママの角を折って埋葬したわ。5年前のこと」 「お父さんの角は?」 「角が出るのは女だけなの。角は万能の薬だから、本当は次の日、私はほとんど回復してたの」 「立派なご両親だったんだね」 僕は心からそう思ったのだが、あかりの反応は違った。 「子供を一人残して、会った事もない人間を助ける為に死んで立派なの?迫害されながら人間に役立つように薬草を採るのが偉いの?私はいや、自分の為に生きる。もう、私だけなんだから・・最後の鬼なんだから」 何か、大事なものが見えようとしている。漠然と、でも確かな何かが・・ 「あかりが鬼だと知っているのは僕だけ?」 「チャットで親しくなってメール交換していた愚駄さんにだけ打ち明けたわ。会社をリストラされて、通信料も電話代も滞納で切られたらしいの。ずっと連絡がとれない」 「その人は何て言った?」 「自分の奥さんの角の方が長いって」 パジェロを空家に置き、僕達は一軒家に戻った。レンタカーは3日間の延長をしている。3日後、僕はこのパジェロで舞鶴に戻り、JRで小倉に帰る。もう夏休みも終わりだった。 「当社を選んだ理由は?」 「週休二日制ですし、給与もまぁまぁですから」 「自分の長所は?」 「特にありません。真面目な方とは思いますが」 「入社したら何がしたいか?」 「そんなの、入ってみないとわかりません」 やりたい事がないから、生活の為に働くしかないと思っていた。でも会社は生活と人格を押し潰して企業利益第一の社員にしようとするだろう。金の為に働く社員を、企業は稼ぐ為にこき使う。それ以外の何があるんだ。 茶の間で僕とあかりは黙ったまま動かなかった。それぞれで物思いに耽っていたのだが、僕には結論が出た。 「あかりのご両親だけどね・・」 「ええ・・」 あかりは夢から醒めたように僕に向かい合う。 「やっぱり立派だと思う。そして、僕も同じように生きたい」 「そう・・」 「ご両親のように薬草を採って薬を作り、人の役に立ちたい。そして、もし出来るなら一人でも多くの人を助けたい」 僕は山歩きだけじゃなく、山の考え方が好きだった。初対面でも助け合う仲間。それは鬼が始めた山の掟だったのかもしれない。 「鬼子って知ってる?」 僕の話を聞いていなかったようにあかりが呟いた。 「鬼の子供のこと?」 「親に似ない子供のこともそう言うの。私がそうね。車の二人を助けた道夫、パパやママと同じ顔をしていた」 「あかりも大事なお母さんの角を差し出したじゃないか」 「道夫にあげるつもりだったの。他の人間になんて飲ませたくなかった。でも・・あの人達を見たら・・」 そう、本当は人が困っているのを見逃せないんだ。僕のように・・ 「あかりは鬼子じゃないよ。ご両親の血を受け継いだ優しい子だ」 涙を手で拭いて照れくさそうに笑うあかり。僕の提案を受けてくれるだろうか。 「大学を卒業したら僕が空家に住んで薬倉庫の薬を売り歩こうと思う。やり方はご両親の記録を調べさせてくれ。生活が出来るかどうか判らないがやってみたい。僕は会社の為じゃなく、人の為に生きていきたいんだ」 「駄目よ」 あかりはきっぱりと断った。 (7) 山陽に下りて新幹線に乗り換えた方が早いのは判っているが、僕は山陰線で帰る事にした。 都市を目まぐるしく通り過ぎるより、海岸線を眺めながらゆっくり進む方が好きだ。 「鬼の女はね、一生に一人しか愛せないの。道夫を愛してしまったから、もう離れられないわ。小倉にも帰さない、空家にも住まわせない。ずっと私とここで住むの。お金なら心配しないで、ちゃんとあるわ」 あかりに抱きつかれて、僕はそのまま動けなかった。 「ポルノ作家のひもになる気はない」 「違う、パパとママが残してくれてるの。道夫が厭なら小説はやめるわ。何でも言うとおりにする。だから、私を残していかないで・・」 大きな目に涙を浮かべて僕を見上げる。 「あかり・・」 「道夫、人は一人で生きていけないって言ったわよね・・道夫に会う前だったら生きていけたけど、もう駄目なの。道夫がいないと、寂しくて死んでしまう」 身体を震わせて訴えるあかりを抱きしめた。 「僕もあかりを愛している。卒業してここに戻ってから打ち明けるつもりだった」 「どうして今じゃ駄目なの・」 「あかりが欲しくなる」 あかりの顎に手をやって上を向かせ、唇を合わせた。しがみつくようにして舌を差し出し、激しく応えて来る。そのまま絨毯の上に寝かせて被さった。 「いいの・・道夫なら」 あかりは目を閉じて体の力を抜いている。 「駄目だ、でもあかりを憶えておきたい」 そのまま僕はあかりのすべてを手と口で刻んだ。可愛い角、髪、目、頬、胸、乳首、くびれた腰、足・・ 「道夫、私、脱ぐから・・」 感じているのだろう、耐え切れないようにあかりは声を震わせて訴えた。 「いいんだ、来年になったら一緒に住もう。僕達は夫婦になる。それまではこのままでいよう」 「道夫って・・」 Tシャツの上からあかりの胸を揉み、乳首を吸う僕の頭を抱いてあかりは身体を震わせながら泣き笑いの声で言った。 「やっぱり・・お粥なのね」 出雲を過ぎ、車窓からの景色も夕闇になる。リュックの横に置いた鞄を膝の上に置いて開けた。 下僕勤めの臨時ボーナス。最新機種のノートパソコンだ。 「学歴の為だけじゃない。いろいろ整理しなければならないし、これからの事でも自分なりに勉強したい。たった半年だよ。でも、僕にとってもあかりにとっても無駄な期間じゃないと思う」 「でも、道夫がいない半年は長いわ。それなら・・ネットで私と毎日話して」 「パソコン、持ってないよ」 「28日、郵便局に荷物を取りに行ってって前に頼んだわよね。ずっと欲しかった最新機種のノートなの。それを持って帰って。毎日メールを書くわ。チャット部屋も専用のを作る。道夫と私だけの」 帰ったら調べたい事がある。僕にも鬼の血が流れているのではないだろうか? 自分はどこか他の連中と違うような気がしていた。周囲に馴染めないくせに人の為になる事を目立たぬようにやりたがる。あかりからご両親の話を聞いたとき、その気持ちが痛いほど判った。 もしかしたら・・ もう一つ、気になる事があった。亜希子さんを抱いて髪を撫でた時、小さな突起を感じたのを憶えている。僕とあかりのご両親、あかりと亜希子さん。 本当は、鬼の血筋はもっと広がっているのじゃないだろうか。気がつかないで鬼の子孫がしっかりと街にも生きているなら素晴らしい事だ。 あかり、お前はもう一人じゃない。僕がいる。そして、本当はもっと仲間がいるかもしれないんだ。 そうだ、このパソコンを使ってインターネットだ。どうやって探そう? あかりのように小説にしよう。二人の事を書いてホームページに載せる。 もし、鬼の血筋の人だったら、きっと気づくはずだ。 メールか掲示板に書いてくれるはずだ・・・・ 窓から見える街並みが、今までと違って身近に感じられた。あそこにも鬼がいるかもしれない。 |