「ソフトスモーカー」

(1)
 隆一は私の部屋に入ると、テーブルのケースからグラタナスを1本引き抜き、手を震わせながら横の卓上ライターで火をつけて吸い込んだ。
 「うまい・・」
 だらしなく顔を緩ませてソファに沈み込む彼。こんな隆一を見たら多佳子は何と言うだろう。


 会社を辞めて独立し、東南アジアの雑貨輸入を手がけて何とか生活出来るようになった。グラタナスはマレーシアの煙草で、匂いはきついがニコチンは少ない。
 軽い煙草が流行っている日本なら売れると思ったが、試験販売が不評な上に輸入制限が多く諦めた。今では異常に気に入っている隆一の分だけを仕入れている。


 「あのね、1ヵ月振りに不倫の愛人と会って、それはないんじゃない?」
 扉を開けて部屋に迎え入れてから、初めて聞いた言葉がこの「うまい」だ。 
「おかげでずっと吸えなかった。これから出張する時は鍵を渡してくれないか?」
 「殺す!」
 私は吸い終わった隆一に跳びかかり、交わして彼は部屋の中を逃げ回った。狭い部屋、つまずいた振りをして隆一はベッドに倒れ、私がのしかかる。
 キスから1ヵ月分の埋め合わせで激しいセックスに流れるのは判っていた。私も彼も、お互いの身体に溺れていった。


(2)
 私は過去を振り返るのも、先のことで思い煩うのも嫌いだ。
 「時間はいいの?」
 隆一の身体に自分を押し付けて余韻を楽しんだ。隆一は満足そうに5本目のグラタナスを味わっている。白煙が揺れて流れ、指で弾くと驚いたように消えた。
 「決算期だからね、多佳子にはカンヅメで泊まりだと言っておいたよ」
 「そうか中間決算なんだ。忙しいんじゃない?」
 「涼子や多佳子がいた頃とシステムが違う。もう最後を確認するだけさ」
 「よく残業したわね・・4人で。須賀さんは元気?」
 そう聞きながら、須賀さんの顔が浮かんでこなかった。あんなに一緒だったのに。
 「どうかな・・転勤してから連絡がない。営業には向かない奴だからな」
 隆一はちょと顔を顰め、まだ半分しか吸っていないグラタナスを灰皿で乱暴に押し潰した。


 もう10年が経つ。
 私と多佳子、隆一と須賀さんは同期入社で河村商事の総務課に配属された。
 同期と言っても大卒の男性と高卒の女性では年齢が4歳以上離れるし、仕事も給与も格差がある。 御茶汲みや単純作業も新人だから仕方がない。でも先輩を見ているとあまり内容が変わるようには思えなかった。
 納得できなかったら部長にでも食ってかかる私はすぐに生意気な問題児のレッテルを貼られた。それでも同期の3人とは性格や好みの違いを越えた強い連帯感があり、孤立はしなかった。
 隆一はいかにも要領のいい好青年という感じだが、とにかく煙草をよく吸う。机ではよく2筋の煙が流れていた。吸い終わって消えてないタバコと、口からのタバコの煙。
 須賀さんは隆一と反対で要領が悪い。余計な仕事を押し付けられて徹夜で終わらせ、結局は他の人が評価されたりする。堅実派、常識人、努力家というのは褒め言葉じゃない。
 多佳子は父親がターン電気の役員で、容貌、性格ともお嬢様タイプ。気が弱く、物足りない所があるので鍛えてやろうと思ったが、男性陣にはそこも魅力なんだそうだ。


 課内では、私と隆一、多佳子と須賀さんがカップルと噂されていた。職場結婚が多く、女性は結婚までの腰掛けと思われている会社だから、上司にからかわれる事はあっても注意はされない。
 確かに私と隆一は恋人同士に見えただろう。酔って彼の部屋に泊まった事もあるし、私の部屋で料理の実験台にした事もある。
 男女の垣根を越えた友情。私達は同じ部屋に寝てもキスどころか手すら握ったことがない。一緒にいると楽しかったが、恋愛とは別だと思っていた。気持ちが近すぎ、お互いを判りすぎていたのかもしれない。


(3)
 私達4人の関係が変化したのは、多佳子の相談がきっかけだった。須賀さんから結婚を前提として付き合ってくれと言われ、多佳子は私に隆一への気持ちを打ち明けた。
 「多佳子と隆一ならお似合いだと思うけど、そうなると須賀さんが可哀想だわ」
 「ごめんなさい、村田さんが駄目なら須賀さんでもいいと思っているの。ずるいわね」


 本当の始まりは、私が4人で飲んでいた時に、会社を辞めると話したことかもしれない。隆一は私の独立希望を知っているから賛成したが、須賀さんは不景気で就職難の時に考えが甘いと言って反対した。多佳子はどっちつかずで本人の希望ならとか濁していたが、私が抜ければ残った3人の関係は変わる。


 「隆一には私から聞くの?」
 「お願い。それで・・駄目なようだったら冗談と言って誤魔化して欲しいの」
 隆一に振られて須賀さんと結婚すれば、同じ会社だから尾を引くかもしれない。そういう例も会社では少なくなかった。
 「判ったわ。会社への置き土産に多佳子を応援する」
 「本当?やっぱり涼子は親友だわ」
 喜ぶ多佳子を見ながら、チクリと胸が痛んだのを私は無視した。


 私は煙草を吸わないが、部屋に灰皿とライターは置いている。電話で呼びつけた隆一は話を聞くと、休みなく5、6本吸ってから頷いた。
 「判った。俺はそれでいいよ」
 「何がそれでよ」
 「多佳ちゃんと付き合う。結婚を前提にね」
 私は望んだ結果を喜ばないといけない筈だ。でも、何だか無性に腹が立った。
 「須賀さんとの友情より多佳子を選ぶの?」
 「多佳ちゃんが須賀より僕を選んだんだ。仕方ないじゃないか」
 隆一は吐き捨てるように言ったが、何故か私は自分が責められているような気がした。
 「隆一だって多佳子が好きなんでしょう?」
 「多佳ちゃんは条件が揃っている」
 「条件って?」
 「一番大事なのは、僕を好きになってくれてる事だ。おかしいか?」
 睨まれて、私は目を逸らした。時計を戻せるだろうか?隆一が好きだ、多佳子に取られたくない。
今ごろ、こんな時になって、私は隆一を愛していると気付いた。
 「別に。じゃ、多佳子に伝えておくわ」
 「もう余計なお節介はよせ。俺から多佳ちゃんに申し込むし、須賀とも話をつけるよ」
 10本目くらいの煙草を咥えたまま、隆一は私の部屋を出て行った。

 
(4)
 隆一との再会は偶然じゃない。タイの鉱石の輸入を河合商事と契約し、ついでに元の総務課に挨拶訪問をした。入社7年で隆一も係長になっていたが、机に灰皿はなかった。
 「2年間、禁煙している。多佳子の妊娠が判ってからだ。見るかい?」
 前によく待ち合わせたスナックで、隆一は嬉しそうに定期入れから写真を取り出した。
 「名前は洋子。もう歩くし、パパって言えるんだぜ」
 「可愛いわ。私、結婚はしたくないけど子供は欲しいの」
 「僕には実績があるから作れるよ。協力しようか?」
 「洋子ちゃんは多佳子似だから可愛いけど、隆一に似た子は考えるわ」

 
 3年間の空白が埋められていた。私達はいつものように飲み、引っ越して遠くなったけどタクシーで私の部屋へ行き、でも前とは違って自然にベッドで求め合った。  


 「何でテーブルに灰皿とライターがあるんだよ。男がいるのか?」
 シャワーを浴びて着替えた隆一は不愉快そうに聞いた。
 「違うわよ、これは私にとって欠かせない部屋の飾り。この部屋に入った男は隆一だけだわ」
 「こんな物があると、吸いたくなるじゃないか」
 「吸ったら?」
 私は部屋に置いていた試供品のグラタナスを差し出した。それからは、私の部屋は隆一にとって唯一の喫煙所になった。


(5)
 「何か悩みでもあるのか?」
 思い出に耽っていた私を隆一は心配そうに覗き込んだ。
 「思い出していたの。多佳子の話を伝えた時、私も隆一が隙だって告白していたらどうなっていたかしら」
 「涼子らしくもない。まぁ、僕は禁煙をしないですんだだろうな」
 「やっぱり失敗したのかなぁ。でも、平凡な家庭の主婦なんて私には勤まらないわ」
 隆一は訝しげに私を見た。過ぎた事を愚痴るなんて、確かに私らしくない。
 「僕は後悔していない。多佳子と結婚して洋子が生れた。こうして涼子といられるのは贅沢だと判っているけど、家庭も涼子も失いたくない」 
 「でも、いつか終わりが来るわ」
 「判っている。でも・・本当にどうしたんだ?涼子らしくない」
 私らしい私って、どんな私だろう?隆一は会社にいた頃の私が今でも変わっていないと思っている。隆一に抱かれる前の私と、今の私が同じだと思っている。 
 「隆一って、単純ね。後悔しないと言っても、今がそのまま続くわけじゃないわ」
 「どういう事だ?」
 「後悔の種が生まれるのよ。子供が出来たわ」
 もちろん、産んで育てる。私と隆一の子供だもの。
 「どうしよう・・」
 隆一は頭を抱えて情けない声を出した。
 「何よ、厭なの?」
 「涼子が妊娠したとなると、ここでもタバコが吸えなくなる・・」


  私のアッパーカットが見事に決まった。