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「社長と檸檬」
(1)
檸檬15個、オレンジ2個、赤りんご3個、バナナ一房、大蒜一袋、そして米酢一瓶。まあ、なんという取り合わせ、そう思いながら、私はレジのキーを打つ。 かごいっぱいの量のため、スーパーの大の袋2枚を押し込んで、レジの前に立つお客に差し出した。
合計金額1876円。
お客は新札の一万円札を出して、
「すみません」と一言小さく呟いた。
「いいえ」と笑みを浮かべてそれを受け取り、レジの中から釣銭8124円を取り出しレシートとともに彼の掌にのせた。
レジの3メートルばかり右手で品物を棚に並べている役付きの社員がちらちらと、こちらを見る感じがする。ん?私のやりとりがおかしいのかなと、そちらを見ると、とうの社員は俯く。
別台でかごからスーパーの袋に果物を詰め込んだお客が、レジに近づいてきて、余った袋を「ありがとう」といって返却した。自動ドアから外にでる間際、「有難うございました」の私の声にお客は笑顔で振り返って頷いた。
お客が外に消えてすぐに、社員が小走りに近寄ってきて言った。
「今の方が、社長です。おぼえておいてください」
「あれま、そんな事は先に言ってもらわないと……」
私は苦笑い。
「顔わかりましたか」
と社員が聞いてきたが、いちいちお客の顔など見ていない。
今の私は、レジのお金の出し入れに間違いがあってはならないと、戦々恐々としている。
「夜中に社長がわざわざ果物と酢を買いに、山手から街中まで出てくるなんて考えられない……」
私は笑った。
「いつも、そうなんですよ」
社員は緊張した顔で言った。
でも、意外だった。社長はセーターとジーンズというラフな格好。そして、勤めてから3ヶ月もたつのに、私は社長の顔を知らないのだった。
そうだ、そう言えば、今朝の出勤時、更衣室と勘違いして、入り口の部屋のドアをがちゃがちゃやっていたら、通りがかった事務員の女性に、そこは社長室だと言われたっけ。
社長が中にいたら、今日のセーターのお客が出てきたのかと、思わず笑ってしまった。
私の勤めているスーパーは「スタープラザ」と言う名前で、京都市内5ヶ所に店舗がある。ポイント発行会員カード3万枚とあるから、しっかりした顧客を掴んでいるようだ。
レジにもオレンジ色に日の出のマークをあしらった会員カードを持って買い物に来るお客が多い。
付近には京都大学、京都大学付属病院と、吉田神社、聖護院など、人を擁する建物が多い。お客の中には、付近在住の主婦にまじって、大学病院で入院患者に付き添っているる近親者や、ナース、大学の教授と見受けられる男性、そして学生達などがいる。深夜には、ベンツなどを止めて、買い物に入ってくる祇園のクラブのママさんも数人いる。
スーパーの前には、樹齢400年とも言われている公孫樹の大木がある。師走も押し迫っているのに、今年はまだ黄金色の葉が樹全体をおおっている。朝の光を浴びている時などは、うっとりとしてしまうほど、蒼い空に堂々と聳えて輝いている。
午後のおやつ時に風が吹くと、はらはらと黄葉が舞い落ちて来て風情がある。その下には、スタープラザが用意したお洒落なベンチがひとつ置いてあって、買い物に来た老人が座っていたりする。時にはスタープラザで買ったお弁当を広げながら、文庫本を読んでいる人もいる。
「スタープラザもおつな事するじゃん!」
と、関東から京大に来ている学生が、このベンチの事を褒めていた。京大の農学部の中にも銀杏並木があって、そこは鈴なりのぎんなんが空を肌色に染めている。道路にはおびただしい数のぎんなんが落ちていて踏まれて悪臭を放ち、それを靴で踏むとどこまでも臭いがついてくる。
でも、「あたし的」には臭くってもぎんなんがなるほうがいい。
表の公孫樹の下を眺めてぼんやりとレジの所定の位置にたっていると、「ほいほい」と言って初老の男性が新聞の束をドサッと前においた。
「また、これから切抜きを始めるんですよ」と笑いながら、小銭入れの中を探っている。
「あなたはお幾つですかな?」
初老の男性は私の前に立つと、小銭入れの中を探るのをやめて、私の目を覗き込む。
「レディに年齢を聞くのは、紳士として如何なものでしょうか」
私は笑いながら答える。
「あなたなら、時そばの原理が大分応用できそうで」
男性は笑いながら、18紙分の合計金額を100円玉でレジ横の受け皿に、一枚二枚と声を出して、数えながら置いていく。
「切り抜きが終わらないと、本が読めなくってね」
片目をつぶってよれよれのポケットから文庫本の頭を親指と人差し指でちょこっとつまみ出して、題名が私に見えるようにする。私はそれを一瞥して題名を覚え、読んでいない本なら帰りに古書店に寄って、それを買い求めて読む。
そして、私は思う。はは〜〜ん、今こんな心境なんだなと。彼の読む本はおおむね昭和初期の物が多いので、百万遍の古書店では大概100円から求める事ができるのである。
新聞18紙をぶら下げて男性は帰り際に「シルブプレ」と、片目をつぶって私に挨拶をした。今日のコートもよれよれだったけれど、あれはまさしくバーバリーだった。何を切り抜いているのか知らないけれど、こうして毎日新聞を買っていく「社長」さんなのだ。
「大和田さん、休憩を取ってください」
フロアの主任が私に近づいて声をかける。「え、もうそんな時間?」
6台並んでいる壁際の1番レジの上の時計を見る。古い昔の振り子時計は4時を示している。 パートやアルバイトは、4時間ごとに30分の休憩をとらなければならない。その休憩時間はタイムレコーダーを「外出」にしてカードを通さなければならない。という事は、スーパーに身柄を拘束されながら賃金をもらえないという状況である。私にとっては、はなはだ遺憾な事なのだが、法規で定められているのだから我慢するしかない。
2階の事務所に行って、タイムレコーダーの溝に「大和田翔子」と書かれた自分のカードを通して、外にでた。スタープラザの上は3階から10階までが、マンションになっている。 スーパーに勤めるようになってから、私はここに引っ越した。1DKで、一人住まいにはちょうど良い広さである。
それまでは、上賀茂の一戸建てに住んでいた。引っ越してきたのは私だけで、敷地160坪の和風住宅に今も息子夫婦が住んでいる。私が長年住みなれた我が家、夫と共に人生の大半を過ごした思い出の家を出た理由はおいおい話していくとして、この1DKの住まいはすこぶる居心地がいい。
必要最小限のものをもって出たので、部屋は今の所広々としている。ベッドと机とパソコン一式、そして冷蔵に食器棚。タンスはない。作り付けのクローゼットに春夏秋冬数着ずつの衣類とこまごました肌着類。それだけである。想い出になるものは一切持ってこなかった。
大和田翔子第二の人生のスタート、そんな気分で出てきた。
息子と嫁は猛反対したけれど、それも口先だけと結構心の中で僻みながら、それでも少し清清した気分で、私はこのスタープラザのマンションに移ってきたのである。休憩時間がくると、私は808号の自室に戻って、牛乳を飲み、パソコンのスイッチをオンにしてメールが来ていないか覗くのだ。
アウトルックのフリーメアドに一通、ネットの友達からメールが入っていた。2週間後に京都へ行く用事が出来たから、お茶でもしないかとの誘いだった。2週間後といえば、まだ松の内、スーパーを休めるかどうか今のところわからない。シフトはこれから組まれるから、日がはっきりすればその日を外してもらえるもしれないが。その旨のメールをささっと書いて返信すると、急いで、私はスーパーの2番レジの位置に戻った。
しばらくすると、6番レジ担当の孫さんが篭をレジ台の上に立てかけて、私に近づいてきた。篭を立てると、そこのレジは休止中になる。
「相談したい事があるので、あとで時間とってください」
彼女はそう言うと、きびすを返して自分のレジに戻った。孫さんは中国からの留学生で、このスーパー近くの留学生専用のアパートに住んでいる。私よりは首一つ半背が高い。年齢は私の半分近くあるのに。
170センチはあろうかと思われる背丈に、童顔の小顔がちょこんとのっている。何の相談だろうと思いながら、私は孫さんの後ろ姿、無造作に束ねた髪をぼんやりと眺めた。
スーパーの昼夜の交替は午前10時、午後10時で切り替えられる。私は友人のコネクションで採用されているので、シフトは昼夜どちらにも配属される事になっている。私の時間は100%私のものであるから、24時間のどこに組み込まれても、生活に支障はないのである。
夕方のスーパーは混む。ぼんやりしていると、お客への挨拶の言葉も忘れがちになり、つり銭の勘定も間違えるので、私は「よ〜し」と心の中で気合を入れ、レジに向かった。
8時にパートの仕事を終えて、孫さんと鴨川沿いの喫茶店に行った。葵橋のショコラというフランス料理のしゃれたお店である。奥には30人ほどが座れるようにセットした長いテーブルがある。その中央を約30センチ幅の帯状に、深紅のバラの花びらがしきつめてあった。2本の燭台はルイ王朝時代を思わせるような樹の枝をあしらった金色のものである。
聞けばクリスマスだからとの事。素敵な演出に孫さんと顔を見合わせてため息をついた。私達はパスタを食べることにした。
それから一時間あまり、食事をしながら孫さんの話を聞いた。それから、私達はスーパーの近くまで戻って別れた。孫さんの相談事はボーイフレンドの事だった。孫さんは勉学とアルバイトの事で頭がいっぱいで、交際まで余裕がない。だから、交際を申し込んで来た相手を断りたい。それについては、相手を傷つけずに断わるにはどうのように言ったらいいのだろうかという事だった。私は返答を保留した。傷つけずに相手からの交際を断るなんて出来るのだろうか。
部屋に帰ってパソコンの電源を入れ、私はベッドの上に転がった。何もない部屋。この部屋に来て3ヶ月にもなるのに、装飾らしいものは何もない。まるで私の心のように。若い孫さんの相談事が、青春時代を思い起こさせて何かしら悲しくなった。
数日前に、私の様子を見に来た娘は、私の部屋を見回して訝しがった。
「お父さんの写真もないの?」
「そうね、もう終わった事なんだよね」
私はその時、素っ気なく答えた。
心の中から消えたと言っても、決して消えはしない。そう娘と息子を成した間柄だもの。夫婦は2世と言うけれど、そんな言葉は私にとっては死語なんだわと、私はベッドの上でひとりごちた。
「大和田さん、2階のどこかに図書館ほど本が置いてあるお部屋があるのご存知?」
夜の十時にスーパーの勤務に入った時、もう6年も深夜勤務をしているという明理さんが私に言った。
「図書館ほど? なあに、それ?」
「うん、本好きなんですって、ここの社長」
「ふ〜〜ん」
そう言いながら、果物をいっぱい買った社長の顔を思いだそうとするが顔が浮かんでこない。紺色セーターの裾あたりだけが思い出される。
午前1時までの3時間が私の担当時間だ。社長が果物を買いに来ないかしらと、私はなぜか心待ちにしていた。本好きと聞いただけで、私の心はときめいていた。
夜のレジは2台が稼動しているが、明理さんが店内の品物の補充の仕事に回ると、ひとつは篭をたてて休止になる。すると、私一人だけが2番レジに立っていることになる。
夜の10時は京都においてはまだ宵の口である。喧騒をさけて夕方の買い物を避けた老人たちがゆっくりと買い物を楽しみに来る。そして、これから仲間で食事を楽しもうとする学生たちも三三五五かたまってやってくるのだ。
新札発行で、樋口一葉の五千円札も見慣れてきた。一万円札に付けられたきらきら光る模様も慣れて、気にならなくなった。しかし、聖徳太子の一万円札を知っている私にはどれもなんだか値打ちがないような気がする。けれども、レジを開けるたびに、そこに樋口一葉がやや横向き加減で鎮座しているのは、本好きな私にとっては気分の良いものだった。
一葉を見る度に、斎藤緑雨の事が思い出され、一葉の恋に思いが移っていく。そして、生前緑雨の事をよく話した亡き夫の事も、その続きに思い出されてくるのだった。
「はい、一葉でお払いしますよ」
ぼんやりと一葉に思いを馳せていた私は、その声にはっと我に帰る。果物をいっぱい入れた篭をレジ台において、50少し前のお客が立っていた。紺のセーター。
檸檬15個、りんご3個、オレンジ2個、そこまでレジのスキャナーを通してから、私は思わず果物から顔をあげて、お客の顔を見た。
にこやかな涼しい目をして、社長がそこに立っていた。
私は客用スマイルを社長に返してから、高鳴る胸の動悸を押さえて、それでもなんとか平坦な気持ちで、篭の中の賞品をスキャナーを通して別の篭に移し変えた。
「1876円のお買い上げでございます」
少し語尾が震えそうだったけれど、私はしっかりと最後まで言った。
社長が朝陽マークのカードを出し、樋口一葉の5000円札をレジの代金受けに置く。
「3124円のお返しでございます。またお越しくださいませ。」
言うべき事を言ったけれど、もう顔を見られない。お釣りを社長の掌に乗せるのがせいいっぱいだった。
何事もなく社長は篭から果物をナイロン袋に移し、自動ドアから出て行った。社員がすっ飛んできた。
「大和田さん、社長にお疲れ様でしたって、声かけてくれましたか?」
と詰問調に私に言う。
「あっ!」
私が声をあげると、彼は眉間に皺を寄せた。
「パート社員の教育ができていないと、社長に思われるじゃないですか.。困った人だなあ」
私は平謝りに謝ったが、彼はむすっとし顔で、きびすを返して持ち場に戻っていった。
「そんなに気になるのなら、自分が社長に言いにくればいいのにね」
いつの間にそばに来たのか、明理さんが笑いながら私の肩をたたいた。
「で、ハンサムだった? お気に入りのマスクだった?」
明理さんはにやっと笑いながら私を覗き込んだ。
「それがねぇ、目だけしか見られてないの」
「そうよ、初めての時って、誰でも緊張するよね」
明理さんはあっけらかんと言い、伸びをしながら持ち場に戻っていった。
目を閉じて、社長の顔を思い出そうとするが、思い出せない。こんなに緊張したのは、久しぶりの事だった。
ふと、思い当たって、レジの記録紙を送りだし、社長の買い物の明細を見た。檸檬15個、りんご3個、オレンジ2個、バナナ一房、大蒜、米酢、数量も値段もこの前とおんなじだった。私は声をあげて笑ってしまった。でも、こんなふうに同じ物を買うなんて、きっと独身なんだ.と、私は自分用に頭の中にこしらえているプロファイリングと照らし合わせた。
ジュース類の所で品出しをしている明理さんに近づいて、小声で聞いた。
「ねぇ、ひょっとして、社長って、奥様いらっしゃらないの?」
「あら、よくわかりますね。さすが主婦の目はするどい〜〜!」
明理さんはウインクしながら言った。
「ええ、独身らしいですよ、もったいない。でも、好みありますもんね」
「そんな意味じゃないけれどね、あんな買い物の仕方って、奥さんがいる人はしないんじゃないかって」
私が答えると、明理さんがつっこんできた。
「じゃ、どんな意味なんです?」
「うん、自分の推理が当ると、面白いの」
私はそう言うと急いでレジのところへ戻った。お客がいなくても、レジ担当者はレジの前に立っていなければならないのだ。
独身なんだ、だから、いつも同じセーターなんだ。私は心の中で呟きながら、サワーか何かをつくるのかなと、先ほどの果物と酢のコンビネーションをあれこれ思い描いた。
それにしても、大蒜は何につかうのだろう、緑の袋にはいった大きな大蒜はそれだけで、不思議な果物に見えるほど外の白い皮と形が素敵である。私は、網篭にはいっている大蒜をキッチンにいつもつるしておいた。それは虫除けのためであったが。
「あのう」
おずおずと、若い女の子が私に近づいて来た。
「表のベンチに、本の忘れ物が」
彼女の手に、古い文庫本があった。
「こちらでお預かりしておきます、ありがとうございます」
私はお礼を言って、本を受け取った。文庫本はクリスマス模様の包装紙できちんと表紙が作ってあった。書店名の印刷がないから、どうやら独自の紙で作ったものらしい。
最後のページを見る。これは私の癖で、どんな本も最後の刷りの所をみてしまう。これは第何刷なのか、それが気になるのである。
そのページの下に日付とサインがしてあった。本は古いもので、紙の白い部分が色あせて変色している。
公孫樹の葉が栞がわりにはさんであった。その箇所を読むと、私の胸は高鳴ってきた。見覚えのある文章がそこにはあった。
こんなに大事にしてもらうって、お前はしあわせだねと本に囁きながら、私は持ち主の本好きと優しさをそこに見たような気がした。
どんな人がこの本の持ち主なのか、確かめてみたいと思いながら、私は忘れ物用のノートに本の名前を記載して、それから、文庫本を一階の事務所の忘れ物箱に入れにいった。
その夜、私は文庫本の事が気になって、ずっと眠りにつくことができなかった。
レコード、CDの類は全て、上賀茂の家においてきたが、明日、息子にこちらへ運んでもらおうと思いつく。音楽なんて、夫との思い出を呼び覚ますだけだからいらない、そう思っていたけれど、今夜はつくづく音楽を聞きたい気分だった。
公孫樹の樹の下であの本を読んでいた人がいる、そのことだけでも、自分が音楽を遠ざけていた事が悔やまれてならない。好きな物は大切にしなければならないのだと.。
ベランダにでると、月光の中に公孫樹が枝を広げていた。午前3時、街は生きている。車の音も賑やか…….。
公孫樹は時々、はらりとその葉を落とす。。古都の冬の風に、公孫樹の枝が揺れるばかりだった。
(2)
クリスマスソングが、スーパーの中に賑やかに流れている。
一週間前から、いろいろな国からのシャンパンが木箱から出されて、並べられていた。その中に、有名な「ドンペリ」が真っ黒な瓶に金の封印をして、安いお値段のシャンパンの中に鎮座していた。見る人は「ドンペリ〜」といいながら、ため息をつき、横の2000円弱のシャンパンを買い求めていった。ドンペリ、12000円、これでもお安いほうのドンペリらしかった。
「大和田さんは、クリスマスどうされるの?」
孫さんがにっこりしながら話し掛けてきた。
「何も予定きまってないのよ。ひとりで過ごすしかないけれど」
笑顔で答えたが、心なしか孫さんの顔が淋しげ……
「時間終ったら、お茶しようか」
私が声をかけると、孫さんは「うん!」と嬉しそうに頷いた。
その日は、苺や、生クリーム、ケーキ材料などがたくさん売れた。明日はスーパーの表入り口で、七面鳥に見立てたチキンの丸焼きが売られるそうで、準備があわただしく行われていた。
夕方、スーパーの前で、孫さんを待っていると、大きな公孫樹の大木から黄葉がはらはらと、とめどなく落ちてきた。ベンチに座っている私の上にはらってもはらっても、黄葉は降りかかる。私はなんだか森の中にいるような気分になって、じっと座ったまま、黄葉に包まれていた。
こんな事は初めてだった。心の中にある私の庭にも真黄色になった公孫樹は降り積んでいった。
孫さんがやってきて、私は公孫樹の樹下から離れ、二人して百万遍へ向かって歩き出した。
「大和田さんはどうして、一人暮らしなんですか?」
孫さんが尋ねる。
「ええ、いろいろあってね、自分の生活を確保したかったの。息子夫婦と一緒に暮らす事になったんだけど、知らない人と暮らすのは大変だから」
私は、嫁の事を知らない人といって、少し棘あるかしらと思った。結婚してから、息子も知らない人になったとは、言えなかった。
「中国では大家族は当たり前なので、大和田さん、淋しくないかなと思ったのです」
孫さんは、少し気遣うふうに私を見た。
「大勢でくらしても、心が寂しい時はありますよ」
私はにっこりと微笑みながら、孫さんに答えた。孫さんは考え込むようにして、私から、足元に視線を移した。
暫く無言のままで私達は、東山に向かって歩いた。
「お好み焼き、食べようか」
私は思い出したように元気な調子で言い、孫さんの手をひっぱって、お好み焼き「茶花」に入った。
香ばしいタレの匂いが店の中に充満していた。ジュ―ジューとタレの焼ける音も、食欲をそそる。二人して案内された奥のテーブルで、冷たくなった手を鉄板の上にかざして、にっこりと微笑みあった。孫さんもひとり、私もひとりの、クリスマスイブの前の日だった。
もちとチーズの入ったお好み焼きと2個と飲み物を注文してから、私は孫さんに話し掛けた。
「彼の事、どうしたの?」
孫さんは、少し俯いて答えた。
「断ろうと思ったんですが、なかなか断れなくて。でもやっとこちらの事情を言ったら、納得してくれました」
「まあ、良かったじゃないの」
「それが、少しも良くないのです。わたし、勉強にも仕事にも身がはいらなくて.……」
孫さんは、そう言ったまま、おしぼりをたたんだりのばしたりしている。
「孫さんのほうが、今度は好きになってしまったのね」
そう言って私は、彼女の顔を覗き込んだ。
今にもこぼれそうなほどに涙をいっぱいためて、孫さんは私を見つめてきた。
若いっていいな、と私は思った。泣けるほど相手を好きになる、そんな感情、もうどこかへ行ってしまった。私に残っているのは死んだ夫に対する恨みがましい心や、息子夫婦への何ともいえない苛立ちばかりだった。
私は、孫さんの手の上に両手をのせると言った。
「うまくいくように、考えましょうね。ほら、笑って。恋する乙女は素敵な笑顔でいなくてはね」
孫さんは、片手で涙をぬぐうと大きくうなずいた。
熱くなった鉄板の上に「茶花」特製のもちチーズ入りのお好み焼きが運ばれてきた。その上にマヨネーズでハートを書いてあげると、孫さんは真っ白な歯を出して、声を立てて笑った。
恋とは不思議なもので、言い寄られると引きたくなる。最初に自分の心のほうが何がしか感じていればまた違うが、何も思っていなかった相手からの場合だとそうなってしまう。好意を持たれているのに、引くのはどうしてだろう。
孫さんもきっとそんな心境だったのだろう。けれども断ったあとで、相手が素直にそれを認めてくれると、反対に情が湧き出してくる。しつこく言い寄ってくると疎ましく感じるのだろうが、こうあっさりと諦める事をされると、気になるものらしい。
恋は駆け引き、と良く言われるが、この気分の変化はどんなに言葉を尽くしても説明しがたい。孫さんは恋の流れに少し足をとられているようだった。
「大和田さん、社長から何かお話ありました?」
唐突に孫さんが社長の話を持ち出してきた。
「いいえ別に。何かあったの?」
「何だかね、大和田さんを広告の部署に回せないかって、お話してるのを聞いたのです」
と、孫さんが続けた。
「更衣に行く時、社長室のドアが少し開いていて、中で店長と社長がお話していました。大和田さんがパソコンが出来るらしいから、広告のほうに回ってもらってもいいかと、社長がおっしゃってました」
「あら、私、社長とは正式に面識ないんだけれどね」
「ご主人とお知り合いだったとかで、大和田さんの事、良くご存知のようでした」
「あら、そうなの」
その、一言で、孫さんは立ち聞きした気まずさを説明して、だまってしまった。私も、夫の知り合いだった面々の顔を思い出すが、スーパーの社長をしている友人の話など、聞いた事もなかった。
夫を良く知っているのなら、スーパーを止めようかなと、心に雲が垂れ込めてくるのを感じた。
「はい、社長の話はやめ〜。美味しく飲んで食べましょ」
私は明るく言って、孫さんのコップにビールを注いだ。鉄板の上のお好み焼きは、ほそい千切りの花かつおが湯気でゆらゆらと揺れていた。
「げそ、焼いて頂戴」
私は、学生らしいアルバイトの店員に声をかけてから、孫さんに微笑んだ。
ほろよい気分で「茶花」を出ると、外は風花が舞っていた。
マフラーをしっかりと首に巻き、雪が襟から入り込まないようにして、私達は自宅方向へ向かった。京都は西に向かうと少し下り坂になっている。
ほてった頬に風花は心地よい。黙り込んでいる孫さんが気になって覗き込むと、孫さんが声を殺してしゃくりあげていた。
「好きになってしまったんです。断られてから、余計に気になって……」
とぎれとぎれに言葉をだして、孫さんは私に抱きついてきた。
「あらま……」と私は声をだして、孫さんの腰を抱いた。背が高い孫さんの肩には手が届かない。私は立ち止まって彼女の背中を撫でた。
恋をした若い女性の慟哭が、私に伝わってきた。懐かしい感情が私を包んだ。恋して泣けるなんて、久しくそんな事はないなと思いながら、孫さんの背中を撫で続けた。孫さんはずっとしゃくりあげていた。
風花は私たち二人を中心に舞っているかのように、流れるような輪を描いて落ちてきた。
これでは、キューピッドの役をしなければなるまい、と私は自分に言い聞かせた。
激しい気分の高揚から少し冷めたようなので、私は孫さんを促して歩きはじめた。道は下り坂、言葉もなく静かに私達は歩いた。
恋する女と、もう恋からは遠ざかっている女の、二つの足音が混じる。
うらやましい気分と、過去を振り返る懐かしい気分とが交互に、私の身体を満たした。
「もう今夜は遅いからお茶はしないけれど。二人のキューピッドになってあげるからね」
と、孫さんと握手をした。孫さんは目で私にうんと甘えたように返事をした。
マンションの前はびっしりと公孫樹の葉が落ち、黄色い絨毯のようになっていた。落ちたばかりの一枚を拾って、私は孫さんに渡した。
「今日の恋の涙の印に、押し花にしてごらん。素敵な想い出になるから」
孫さんともう一度握手をして、私はマンションの外階段を上った。
風花と公孫樹と、今までにない風景が私を心地よく包んでいた。
二階まで上がって階下を見ると、孫さんが交差点の真ん中で、私を見上げて思い切り手を振っているのが見えた。
マンションの玄関を開けると、娘が持ってきたシクラメンが蝶の羽のように花びらを広げている。シクラメンは篝火草と書くんだよと、亡き夫が教えてくれた。奈良の春日大社で薪能を見たとき、篝に入った火を見ながら説明してくれたのだ。ほんとうにシクラメンは篝火のようだった。
いまでは、夫の好きだったものは全て遠ざけているのに、このシクラメンだけは嫌いになれない。白も紅も、どんな色であれ、シクラメンは私の心を捉えてはなさない。
お酒で火照った頬を手で押さえながら、私はベッドに転がった。天井には娘が貼ってくれた星が七つ、北斗七星の形をして並んでいる。
夜光塗料が塗ってあるのか、明りを消すと、薄い黄緑色で発色する。星を眺めていると、ふいに、涙が目尻からこぼれた。
「君を幸せにするよ」
と言った夫が、私の心に大きな傷を作った。出張で行ったはずの北海道で心筋梗塞で急逝した時、傍らには十年来の愛人が泣き崩れていたのだ。夫の急逝と背信と、二重の悲しみに私は打ちのめされたが、葬儀だけは気丈に妻の役割を全うした。
弔問の人々に会釈を返しながら、自分の顔が青ざめているのを感じずにはいられなかった。人々の視線が好奇の眼差しに見えてきて、心は寒々としていた。
個人商店とはいえ、社員も30名近くいる呉服店主夫人としての幸福な立場から一転して、私は好奇の目に晒される事になった。肩肘を張ってそれに耐えた。誇り高く何事にも動じない振りをして一連の行事をこなしていった。夫に対する愛憎よりも、自分を自分で守らなければならないとそればかりを呪文のように唱えていた。
相続の遺産分割協議書に判子を押すまでが大変だった。妻である私の取り分を法定の二分の一にすると、私に何事かあったとき、また相続でごたつくのは厭だからと息子が言い出し、なかなか治まりがつかなかった。息子への嫁の入れ知恵もなんとなく感じられて疎ましい限りだった。
遺産を挟んで心が少しずつ離れていくのがわかった。
最初の一年は愛人の存在が私の心を支配していた。夫の残したものはびた一文要らないと憤懣やるかたなしで終始いらいらしていた。夫の事を丸ごと信じていた浅はかさを、息子や娘がどのように思っているのかと、それを思うと奈落の底へ落ちるような侮辱を感じた。
それを助けてくれたのは、学生時代の友達の理沙子だった。
「そのイライラの分だけ財産をもらいなさい。それが旦那からの慰謝料だと思えばいいじゃない。お金はあっても邪魔にはならないから」
彼女は夫と審判離婚をしていた。娘二人の親権を巡って争いになり、裁判に判断を委ねたが、彼女に経済力がないという理由で親権は相手側に持ってゆかれた。
理紗子の苦々しい経験を聞いて、私は夫の残した財産を手にする事にした。ほとんどは会社組織になっているため、個人のものはそれほどなかったが、監査役として呉服問屋の中に名を連ねているのをそのままにして、私は条件のおおむねに納得して協議書に判子を押した。その時点から、私は息子や嫁と、一線を画す決意をしていた。
娘にはまだ別の思いがあった。
けたたましい鴉の鳴き声に目が覚める。
ベッドに起き上がって、しばらく闇の中に目をこらしていたが、素足のまま床に立ってベランダへ向かって行く。
時間は午前5時、冬の京都はまだ薄暗い。そっとカーテンの隙間から外を見る。おびただしい数の鴉が電線に止まっていた。そして一様に一定の方向を見ている。
夫が亡くなる時もそうだった。
上賀茂の離れの屋根におびただしい数の鴉の群がやってきた。盆栽の手入れをしていた夫は、大きな声で鴉を追っ払っていたのである。
「あなた、どうしたの?」
声をかけると夫は答えた。
「鴉の群は、魂を迎えに来るというからね。僕はまだお迎えはいらんから追っ払っているんだよ」
「まあ、そんな事ってあるの?」
私は笑いながら彼の背中を見て言った。
鴉たちは屋根にしつらえたソーラーのプラスティックの盤面にうつる自分の姿を、相手と思うのかコツコツとくちばしで叩いている。
夫が大きな声を出して追っ払う仕草をしても、鴉は動じないでいた。
それから程なくして、夫は旅先で倒れ、あっけなくこの世を去った。
四十九日の法要が済んで、仏間でひとりぼんやりと夫の遺影を見ている時、騒々しい鴉の鳴き声がする。外に出てみると、夫が亡くなってからは、忘れたようにぷっつりと姿を見せなくなっていた鴉たちが屋根の上を闊歩していた。その時、夫の言葉が思い出されて、今度は誰を呼びにきたのかと、私はおびえてしまった。
黒い群の中に、真っ白な鳥が一羽混じっている。最初、鳩ではないかと思わず目をこすってみたが、それは確実に真っ白な鴉だった。
私が下駄を鳴らして、飛び石の上を離れに向かって走ると、鴉たちはいっせいに飛び立っていった。
白い鴉は、最後まで屋根の上にいたが、私が立ち止まってもう一度しっかりと見極めようとすると、羽を大きく広げて飛び立っていった。
白い羽が頭上に舞い降りてきた。
夫が亡くなった時と現実が交錯して、私は思わずガラス窓を開けてベランダへ出た。
「私を迎えに来てもいいのよ」
私は呟いてしまった。そうよ、逝きたくない人を迎えに来るのなら、私を迎えにきてもいいのよ、私は小さい声でしっかりともう一度呟いた。新しい生活を始めたばかりなのに、心の中に広がっている虚無感は思わぬ勢いで、私の中で増殖していた。
涙が溢れて止まらない。
冷たい師走の夜明けの空気の中で、私は嗚咽していた。原田康子の書いた小説「挽歌」の中で、桂木に対して「コキュ」と言い、怜子が抱きしめられる場面がある。それを思い出した。もう抱きしめてくれる夫はこの世にはいない。憎くてたまらないはずの夫を恋しく思っている自分に戸惑いながら。
愛すべきものを失い、憎み、恋しがる。忘却の彼方に追いやりたいと懸命に努力しながら、それができないでいる私と、恋の真っただ中にいてもがいている孫さん、この二人には大きな違いがある。涙も辛さも同じなのに、孫さんの涙は桜のようにほんのりと紅色で、私の涙は血にまみれているような深紅だった。
夜十時、制服に着替えて、スーパーのレジの前に立つ。
朝のあの高揚した気分は失せて、店内のざわめきに心がぴんと張っている。こうして仕事がある事は、限りなく崩れていく内面を元通りにする効果があると、私は感謝した。師走の賑やかな音楽がいっそう私をポジティブな方向に引き立ててくれた。
「今日から、正月用品が出てきますから、値段が変わります。入力できていないものがあれば、店内放送で僕を呼んでください。決してレジからは離れないでくださいね。不審者が来た時や危険な感じを受けた場合は、このボタンを押してください。警備員がすぐにやってきますから」
レジ担当者に、夜勤の社員が説明してゆく。不審者が来た時、社員にそれとなく知らせる方法も教えられた。歳末に向けての準備は品物だけではない。ずっと買う側にいた私には、これらの事が、とても新鮮に感じられた。息子からは仕事などせずに、今まで通り、俳句や水彩画のカルチャーを極めたらどうだと、たびたび電話があった。小遣いが足りないのならぼくがあげるよと電話の向こうで言ったが、私は取り合わなかった。自分の世界に閉じこもるなんてもう真っ平、私はさまざまな人と楽しい時間を共有したいと考えはじめていた。
レジをして知ったことがある。世の中にはなんと一人暮らしの人間が多い事か。そしてその一人一人がそれを歎いているかといえば、そうではない。自分の時間を自分のために使って、楽しそうにしている。私は目からうろこが落ちる思いであった。今までは、家族のために生きて来た。これからは自分のために生きてゆきたいと、切実に思う。
そうよ、夫や子どものために生きてきたのに、それなのに夫は……。
「おや、何か考えてますね」その声にはっと我に返る。
社長が、檸檬15個を一番上にのせて、果物いっぱいの篭を、私の前に突き出して笑った。私は思わず会釈して、篭を受け取り、品物のバーコードをスキャナーに通した。
いつも通りの品、そして数。合計がでると、私は、社長から一葉の絵の5000円札を受け取り、釣り銭を彼の手に返した。
無言の簡単な会釈を私に返してレジを離れた社長は、別の台でナイロン袋に果物を入れドアの外に消えた。後には私の声だけが残る。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
外は闇、師走の風は冷たいだろうに、社長はたったひとり灯りのついていない自宅に帰るのだ。私は、彼の暮らしぶりが気になった。そう言えば、この間も、その前も、彼が着ていたのは、少しくたびれた紺色のカーディガンだった。
商品を缶ビールを箱から出して、棚に陳列していた明理さんがやってきて囁いた。
「社長、お疲れのご様子ですね、どうなさったんでしょう」
「私はミスしないかと、そればっかりだから気がつかなかったわ」
明理さんに答えてから、社長の事が妙に気になりだした。
一介のパート従業員が社長の事を心配してもはじまらないと、自分に言い聞かせながら、私は店内を見渡した。
明理さんも所定の位置にもどり、商品を次から次へと陳列しはじめた。音楽は軽快なポップスに変わっていた。十二時までに常連の買い物客が来店する。一言二言の世間話を交えてレジをしなけ
ればならない。手と口と笑顔と同時進行はなかなか難しいが、それでも大分慣れてきた。
胸の名札を見てお客さんが名前を覚えてくれるのも、なんだか嬉しくてつい愛想をふりまいてしまう。
監視カメラがレジにむけて設置されているから、事務所のテレビには私の行動が映しだされている。声は出ないからいいようなものの、のろのろ作業やトラブルはチェックされるので、いつも気持ちは緊張の連続なのである。パートを統括している三十代の女性社員の目も気になる。
十二時近くになると、お客も途絶えて、レジは少し楽になった。ぼんやりと外を眺めながら、夕方に孫さんと約束を交わした事を思い出す。
明日は、孫さんの相手と三人でお茶をすることになった。久しぶりに河原町へ出ようと話した。静かな喫茶店より、賑やかな繁華街、四条河原町で会ったほうが気分も快活になるだろうと。
孫さんの恋をまとめるつもりなのに、なぜか気分が華やいでくる。どの洋服を着ていこうかと、マンションへ持ってきた洋服を思い起こしていた。まるで自分が恋しい彼に会いに行くような気分である。自然に笑みがこぼれる。どんな相手なのかしら、と想像は膨らむばかり。
四条河原町西入北側に「京料理・田ごと本店」はある。打ち水をしてしっとりと濡れた石畳の路地の奥に、ちいさな池がしつらえてあり、緋鯉が二匹優雅に泳いでいた。
待ち合わせの時間より三十分早くついた私は、小部屋に案内された。昨日のうちに予約を入れておいて、奥まった部屋を用意してもらっていた。畳の部屋に掘り炬燵が切ってある。ちょうどテーブルに腰掛けるような感じの楽な姿勢で、和室を楽しむ事ができる。
床の間の一輪挿しには寒椿が生けてある。京都の風情が感じられるたたずまい。繁華街の真ん中にある静かなお食事処、手軽な感じで「京都」を満喫できるとあって、いつも満室であった。知る人ぞ知る京都の穴場である。
お昼時には河原町へ買い物に出てきた女性たちで満杯になる。
二人のために「季節の懐石」を予約しておいた。先に支払いを済ませて、二人が来たら、言葉をかけてから、私は席をはずす事にしていた。お互いに思い合っているならば、他人の言葉などいらない。美味しいものを食べて、にこやかな笑みを交わせば、もともと孫さんの事を好きだった彼だから、きっと心が孫さんに戻ってくるだろうと、私は考えていた。
私があれこれ思いを巡らせていると、仲居さんに案内されて二人がやってきた。孫さんの頬が幾分か染まっているような感じがして、私は心の中でほっとしていた。
孫さんはパートの時と変わらない質素ないでたちで、髪も丁寧にではあるがいつものように後ろでひとつに括っているだけだった。
相手の青年は……もう三十歳を越えているような感じだったが、孫さんと同じように派手な感じではなかった。青年が出した名刺には、大学の講師の肩書きがついていた。
「娘と母のような感じで、孫さんとお付合いさせて頂いています。とても優しいお嬢さんなんですよ。これからもよろしくお願いしますね。今日は日頃、親しくして頂いている孫さんに京都のお料理味わって頂きたいと、お友達もご一緒にとお誘いしましたの。私も最後までご一緒させていただくつもりでしたが、のっぴきならぬ用事ができてしまいましたので、申し訳ありませんが、これからそちらへ参ります。孫さんの事よろしくお願いしますね」
私は、初対面の挨拶のあと、深々とお辞儀をして、彼にそう言った。
不安げな孫さんには、「明日、会社でね」と手をとりながら言い、支払いを済ませてある事も告げた。そして、もう一度青年に会釈して、部屋をでた。
路地を四条通りへでると、そこは紛れもなく師走の喧騒の中だった。行き交う人々の向こうに、高島屋が新しい歳の期待をいっぱいに抱いて建っていた。
雑踏の海の中に押し出された私は、流れに漂いながら祇園に向かって歩き出した。正月への準備も私には必要でなかった。一人暮らしならば、二十四時間営業のプラザの食材で充分事足りる。おせち料理のあれこれも、家族あっての料理であって、自分のためではなかったと、つくづく思い知らされていた。自分のためには何かを買いたいと、思わなくなっていたのである。
木屋町まで来た時、フランソワへ寄ってみようと思い立つ。四条通りの信号を南へ渡って、高瀬川沿いに少しさがると、昔ながらのたたずまいでフランソワがあった。フランソワは賑わっていた。私は本をバッグから出しながら、奥の部屋へ回った。二人掛けの席がぽつんと取り残されたように空いている。そこへ掛けて、私は色あせた本を広げた。
フランソワの室内は、昔と少しも変わらない。名をなした文化人の多くはここに集い、思索し、議論している。そんな噂に憧れて、若い時たびたびここを訪れた。新聞や雑誌で見知ったおぼえのある文化人が、ひっそりとあるいは数名の取り巻きと一緒に珈琲を楽しんでいた。わくわくしながらその傍らをとおり、離れた席からそっとその様子を観察したものである。
想い出がよぎっていく。
注文したウインナ珈琲が運ばれてきた。私はフランソワではいつもウインナ珈琲を飲むことにしていた。真っ白な淡雪のように泡立てたミルクがぴんと角を立てていて素敵だった。あたりの話し声も音楽も、私の耳には入ってこない。泡立てたミルクの香りに引き込まれて、私はロマン・ロランの世界に入っていった。私は、リュース……。
「相席、よろしいですか?」
その声に、本から目を離して見上げると、社長がにこやかに微笑んでいる。思わず立ち上がって、どうぞと答えた。
「年末だから空いているだろうと思ったんですがね、案外込んでいて落胆していたんですよ。でも、見覚えのある方がいたので、思い切って声をかけました」
そこまで彼が言ったとき、ウエイトレスが注文を聞きにきた。
「ウインナ珈琲を、いつものようにね」
「かしこまりました」
ウエイトレスは丁寧に注文を復唱して、消えた。
「おや、あなたもウインナですか」
そう言いながら、彼はポケットから文庫本を取り出し、コートを脱いだ。
「どうぞ、あなたも本を読んでいてください。ぼくも本を読みますから。気にしないでください」
頷いて私は続きのページに目を落とした。けれども、二度と本の世界に戻っていく事はできなかった。
本を広げては見たものの、お互いに本に没頭できなくて、私達は珈琲を飲んだ後、フランソワをでた。
四条から河原に降りて、でこぼこな河原の散策道を歩く事にした。
「久しぶりだなあ。何年ぶりだろう」
感嘆の声を発しながら、社長はあたりを見回した。
「若い人が多いですね」と私は笑いながら返す。
私にとっても、鴨川の河原に下りるのは何十年ぶりかであった。お互いに孫もあると思われるような二人が感慨に浸りながら、若者のデートコースを歩いている。そのおもはゆさに頬が赤らむ思いがした。
「学生運動の頃にね、大橋の上からここへ飛び降りたのがいるんですよ。半身不随になって、夢を失ったのがね。それ以来、ぼくはここへはこれなくなりましてね」
思わぬ言葉を聞いて、私は慄然とした。夫の友人だとは声に出せなかった。京都は狭い。
「仕事なれましたか?」
声の調子を明るく変えて、社長が尋ねてきた。
「はい、とても」
私はまだ、飛び降りた彼の世界にいた。
それから、話は続き、河原のでこぼこにヒールをとられて、ふらふらするたびに、彼に支えられて、私達は歩いた。
気がつくと八つばかり在る橋を全部越えて、北山のあたりまで来ていた。
あたりは夕暮れて、茜色の雲が欅の冬の木立の向こうで鮮やかに輝いていた。
ベンチに腰掛けて、夕陽が沈むまで数分間、ふたりしてぼんやりと西山を眺めていた。
夕陽が西山に落ちた後、北山通りにあがってタクシーを拾い、私をプラザまで送って、社長は自宅へと帰っていった。
―夫の位牌も持たずに家をでるなんて、そんな非常識な事がまかり通ると思っているの。そんな事だから、敏行に浮気をされるんやわ―
―翔子の胸の中にはぼく以外の男の影がある、それを感じるよ―
―この家を出るってことは、病気になっても私に世話になりたくないっていうことですのね―
―孫が可愛くないんですか、お母さん―
―お母さん、私はここのうちからお嫁に行きたいのよ、お母さんがいなくなったら、私、どうすればいいの―
―あなたの纏っているもろもろの着物を脱ぎ捨ててぼくのところへいらっしゃい―
様々な声が私を取り巻いていた。私はベッドに起き上がった。汗でぐっしょりとパジャマが濡れている。へんな夢を見たものだ。義姉、夫の敏行、嫁、息子、娘、そして……。心にわだかまっているものが全部夢の中に現れたような、何とも言えない気分だった。
キッチンへ立って、またあんな嫌な夢を見るのは嫌だなと思いながら、なんだか熱っぽいので、薬箱の中から風邪薬を探しだして飲んだ。
なんだか泣き声がするので目を覚ますと、あたりは真っ白な壁だった。私の手が握られている。娘の汎子が私を覗き込んできた。
「ここは、どこなの?」
「お母さん、時間になっても仕事に出てこないからって、お店の人が心配してくださったの。電話してもドアを叩いても返事がないからって、知らせてくださったの。どうして睡眠薬なんか飲んだのよ……。二日間も眠ったままなのよ。びっくりして病院に運んだの」
泣きじゃくったらしい目の腫れに、私は何事か訳がわからなかった。
「なんで、どうして? 淋しいなら淋しいって言ってくれれば良かったのに……」
「汎子、私は風邪薬だと思ったけれど、睡眠薬を飲んだのかしら?」
私の問いかけに、汎子はぽかんと口をあけたまま、私を見た。
「お母さんのノートに、淋しいって何度も書いてあったよ」
「ノート? ああ、あれね、友達と電話している時に、相手がそう言って泣いたから、書きながら話していただけで、他意はないのよ。書きなぐっていただけ」
「…………」
「それより、もう、自分の部屋に帰りたいけれど、だめなの?」
「今、兄さんが院長室に行っているから、だって、へんな噂が立つと困るから、内緒でここへ入れてもらったのよ」
「まあ、大げさな。私が死にたくなるはずないでしょ。るんるんで一人暮らし始めたのに……」
汎子が私に抱きついてきて、また泣き出した。二十五歳の娘に抱きつかれて、私は自分が母親である事を思い出さずにはいられなかった。
その日の夕刻、私はこっそり退院してマンションに戻った。薬箱は息子と娘によって、きっちりと内容が確かめられた。
夫が亡くなった頃、眠れないでもらっていた睡眠薬を風邪薬の壜に入れていた。それをすっかり忘れていたのである。大事に至らなかったから良かったものの、息子からは厳重な注意を受けた。
その夜八時ごろ、薄紅色のミニバラのお見舞いの花束が届いた。見舞い札に「ピエール」と書いてある。
「お母さん、パートの中に留学生がいるの?」
汎子が聞いてきた。
「うん、ユニークな人がいるのよ」
私は答えながら、胸が高鳴ってくるのを抑え切れなかった。
二、三日泊り込むという汎子を無理やり帰して、私はやっと一人になれた。薄紅のミニバラが二〇本、カットガラスの大きな花瓶に生けてある。
ピエールと言う名前に微笑まずにはいられなかった。
フランソワから北山までの間に、いろいろな話をした。それを一つ一つ思い出しながら私は胸のざわめきに、甘い懐かしさを覚えていた。
パートのレジは病気という事で、年明けまで病欠の扱いをしてくれたらしい。シフトも決まっていたはずなのに、申し訳ないと思いながら、それでもなんだか店に出るのが少し怖いような気がしていたので、助かった。
音楽を聴きながら、私は幸福な気分に浸っていた。
気になっていた孫さんからは、携帯に伝言が入っていた。入院騒ぎで今まで気付かなかったのだが。
「美味しい京料理、ありがとうございました。二人で一緒にがんばる事にしました。大和田さんのお陰です。うれしいです」
押えた声ながら、孫さんの心がじわっと伝わってくるような話し方だった。孫さん、私も恋におちたみたい……。私は心の中でつぶやいた。
夫が北海道で客死したとき、傍らにいたのは親友の亮子だった。十年来の愛人関係だとその時知らされた。息子はうすうす感づいていたようだが、波風を立てたくないと私には、おくびにもださなかったらしい。亮子が離婚した時、私は彼女のひとり立ちについて、夫の敏行に相談をかけた。私の親友という事で、彼は親身になって相談に乗ってくれた。その事が二人を急速に近づけたようだった。
その事に十年間も気付かず、二人を信頼していた私もなんとおばかだったのだろう。晴天の霹靂だった。一気に夫への憎悪、亮子への嫌悪が噴出した。しかし、そこから先、心は持って行き場所がなかった。
夫は何事もなかったような顔で棺の中に眠っている。自分でも考えられないほどの冷静な「翔子」が、私の内部から生まれてきた。
それは冷たい仮面をかぶった「翔子」だった。爾来二年、三回忌を終えるまで、私は自分を殺して生きた。亮子に対する意地でもあった。好奇の目に耐える私の鎧でもあった。内面を誰にも見せずに私は自分の殻に閉じこもった。二年間のカレンダーは一日が終るごとにバツ印をつけた。
油性のマジックでしっかりとバツ印をつけた。憎悪の気持ちを押えて。
正月元旦、京都は深い雪に包まれた。
静かにベランダのガラス戸を開けて、物差しを突き立ててみると、私の持っている短い物差しは埋まってしまった。20センチをはるかに越している。元旦に積雪とはめずらしい。今年は何か良い事があるような気がして、私の胸はわくわくした。
上賀茂に住んでいる時、こんなドカ雪の日は表の通りにでて、雪の玉を転がし、雪だるまを作った。小学生の息子や娘と同じぐらいの背丈の雪だるまである。帽子は砂場遊びの赤いプラスチックのバケツ。目は木炭、口はにんじん。定番の雪だるま、想い出に顔がほころんでくる。
ふわふわとした綿のような雪だった。球形に握っても丸くならない。きゅっきゅっと音がするほど硬く握って、ちいさな雪だるまをこしらえた。春慶の朱塗りの盆を持ってきて雪だるまを置き、その横に雪兎もこしらえた。室内に持って入ると暖房で溶けてしまうので、雪を被ったベランダのテーブルの上に置く。ひとり住まいだと、こんな喜びを誰に伝える事もなく時間が過ぎていく。すこしわびしい気分になっていた。
電話のベルが鳴ったので出てみると、息子からだった。年賀状を持っていくからと簡単に言って切れた。元旦は年賀状を見るのが楽しみだった。それも夫が生きている間まで、その後は年賀状が苦痛になっていた。年賀状に添えられてある私を気遣う言葉がいつも胸に刺さった。その言葉を棘に感じている、それがまた自己嫌悪の元になるのだった。
息子に逢いたくない。私はバスルームに向かうとシャワーを浴びた。全身を映す鏡の中の自分を見つめる。どこからか聞こえてくる「未亡人」と言う言葉。シャワーの音で洗い流す。うなじも腕も、全身まだ水滴をはじきかえすほどに艶やかなのに、心の中に澱をためている。それが顔のどこかに現れている。上賀茂を脱出してきたのに、まだ未練を引きずっている私がそこにいた。
一番お気に入りの赤いセーターに黒いスラックスをはく。思い切ってアイシャドーも入れ、口紅も輪郭をはっきりと描いた。大粒の真珠のイヤリングをして、口紅を引いた唇をゆがめて見る。紅がはみ出している部分をティシュでぬぐって私は鏡から離れた。チュニック丈のコートを羽織って外へでた。
ブーツが雪を踏んで軋む。
心がなにか叫んでいるような気がして、私は急いで銀閣寺への少し緩やかな登り坂になった道を急いだ。その先には哲学の道がある。新雪の道を歩けるかも知れないと、ふと心が華やいでくる。雪の叫びが少しだけ遠のいた。
哲学の道の橋に立った。
桜の枯れ枝が雪色に染まっている。少し青みがかった白。車道は轍の跡が無数についているが、遊歩道の哲学の道は丸みを帯びた積雪の道がまだ踏まれずにあった。ブーツの縁すれすれの雪の深さである。私は少しためらっていた。
「おや、いたずらっ子がいますね」
その声に振り返ると、社長がにこやかに立っている。
「そういう僕も新雪に惹かれてここへ来たんですが……」
心を見透かされて、私はとっさに声が出なかったが、少し間をおいて元旦の挨拶をした。
「入院患者がこんな深い雪の日に出歩くなんてもってのほかですよ」
彼は笑いながら続けた。
「パートは病欠しているというのに、ですよね」
私も笑いながら、ぼそぼそと言い訳をした。
「二人で新雪を侵しちゃいましょか」
その言い方が面白かったので、私は声を立てて笑った。
彼の足元は黒い長靴だった。
「長靴だったら冷えませんか?」
「冷えますよ。足の先が凍えています。でもそのうちぽこぽこと火照ってくるはずなんですがね」話すたびに彼の吐息が白くふわっと広がる。私たちは並んで新雪を踏み出した。哲学の道は二人で並んで歩くのが精一杯の細い道だった。
雪の下にある道を記憶の中から取り出して歩く。でないとどんな段差で新雪の中に転んでしまうかわからない。醜態を演じたくなくて私は必死だった。銀閣寺商店街の橋の手前で車道に降りることになった。その時私は階段を踏み外してしまった。雪の深さから検討をつけた階段の幅を見誤ってしまったのである。すんでのところで新雪に転がる所だった。社長の手が私の体を抱きとめた。とっさの事だった。私を支えようとしてポケットから、彼が手を出した拍子に、文庫本が真っ白な雪の中に飛んで落ちた。
「大丈夫ですか?」
彼は私をしっかりと車道に立たせると、かがんで文庫本を拾った。表紙に見覚えがあった。それは公孫樹の樹の下のベンチに置き忘れられていたあの文庫本だった。
「社長の文庫本でしたの?」
「ああ、これ、そうです。この間忘れてしまってね。往生しました。いつもポケットに入れているのに、どこで忘れたのか思い出せなくってね。スーパーの忘れ物の陳列の中にあった時は、感動しましたよ」
「お正月なのに、クリスマス模様のカバーなんですね」
私は言ってから、少し後悔した。彼の顔が少し沈んだように見えたのである。彼はそれには答えずに言った。
「あなたも、この間フランソワでこの本読んでいましたね」
今度は、私が答えなかった。だまって、銀閣寺門前街への道を左に見て、哲学の道へ進んだ。
「お見舞いのバラの花、ありがとうございました」
「僕だってわかってくれましたか。どうかなって少し不安だったんですが」
「ええ、わかりました。フランソワで私の読んでいる本じっと見つめていらしたから」
あなたはピエール……、そう言いかけて言葉を飲み込む。
家が近所とは言え、こうして新雪を踏むために、哲学の道に来た偶然に、心は花を贈られた時よりももっとざわめいていた。
哲学の道の真っ白な雪の世界は、今は私達だけのもののように感じられた。
雪に包まれた哲学の道を、ひたすら新雪を踏んだ。俯いたまま足元を確かめるように歩を進める。彼が新雪を踏むたびに雪は声を上げた。私の足元の雪も呼応するように軋んだ声をたてる。それを楽しむかのように私は耳を澄まして歩き続けた。
哲学の道は2キロ弱ある。時々足を止めて、桜の樹に積もった雪を眺めた。疎水だけがいつものように透明な流れを見せている。元旦の早朝、家の大黒柱であるはずの男と、屠蘇の準備に忙しいはずの女が揃って雪を踏んでいる。私は後ろめたさを覚えていた。それでもなお、この時間から逃げ出したいとは思わなかった。
哲学の道が永遠に続いていれば良いのにと、心の中に湧いてくるときめきを感じながら願っていた。年末、フランソワで会い、その後鴨川を散策した。あれから、一週間も経っていないというのに、この心の変化……。
不意に彼が言った。
「年始客が来るといけませんから、僕は家に帰ります。この辺りから白川へおりましょう」
法然院の坂道に来ていた。
「滑りますよ。さあ、ぼくに掴まって」
彼の差し出す腕に素直に手を差し込んだ。
「もっと歩きたいですね」
彼が私を覗き込んで言う。私も笑いながらうなずき返した。
「こう言う時なんですね。自分の肩書きが嫌になるのは。生来僕はのんびりと過ごしたい性格なんですよ」
坂道をしっかり踏みしめ、私の手をしっかりとわき腹に挟んで彼は言った。
大通りに出ると、車道はチェーンを巻いた車が音を立てて走っていた。
一台のタクシーが私達の前に止まった。それに乗り込むと、彼が本に挟んだ栞を取り出し、急いで何やら書き付けた。
「ぼくのホームページです。そこにメアドがありますから、そこからメールください」
そして、彼は付け加えた。
「あなたの履歴書に書いてましたね。パソコン歴、ネットできるんでしょ」
この間のように、彼は私をスーパーの前で私を降ろして、自宅へ帰って行った。なんだか許されぬ恋人達の後朝の別れのような感じがして、私は運転手の手前少しぎこちなかった。
タクシーの影が見えなくなるまで見送って、私は急いでマンションの階段を上がった。公孫樹が全身に雪をまとって空に背伸びしている。それを少し眺めてから私はエレベーターに乗った。
部屋に入ると、私はすぐにパソコンの電源を入れた。
画面が立ち上がるまでに、コートを脱ぎ、エアコンを入れ、インスタント珈琲の準備をした。
そうしながら、お茶をする時間もなくただひたすら雪の中を歩いた事が、なぜか新鮮な気がして心が浮き立った。
彼のメモを見ながらアドレスバーに打ち込む。
間もなく彼のHPが私の画面いっぱいに映し出された。鴨川にゆりかもめが乱舞している表紙だった。
蒼い空、静かに流れる冬の鴨川、真っ白なユリカモメ、これはどこの橋から撮ったものだろう。じっと見つめている間に涙が滲んできた。
こんなゆりかもめの風景、何度見たことだろう。でも、こんなざわめいた気分で見たのは初めてだった。メニューをクリックする……。
チャイムの音に気づいて、ドアを開けると息子が白い息を吐いて立っていた。
「何度も鳴らしたのに、聞こえなかったの?」
そう言いながら靴を脱ぎ、部屋にはいる。大きな包みをテーブルにおいてポケットから年賀状の束を出した。
「好みのものばかり選んでいれてあるから」と包みを指差した。
「あら、ありがとう、良かったのに……」
と言いながら開いてみる。
お重に少しずつお節が入れてある。
「ほんとうは昨日もってくればよかったんだけどね」
その声を後ろに聞きながら、何もはいっていないがらんどうの冷蔵庫にそのまま片付けた。
「スーパーが下にあるから、何もいらないってあれほど言っといたのに」
頂き物をしながら、迷惑そうな言葉を発してはっとする。これが嫁姑の心の行き違いの言葉になるのだ。何気ない言葉が持つ棘だった。
「お礼はちゃんと後で電話するわね」
すぐに、言葉を繋いで息子の顔を見る。入院騒ぎから少し私に関心を寄せるようになったのが感じられる。
「ふ〜ん。ネットがあるから淋しくないのか」
画面を見ながら、息子が言った。
「そうよ、足腰立たなくても、これさえあれば全国の友達と瞬時に繋がって、会話ができるのよ」
私はさりげなく、マウスをクリックして、画面を入れ替えた。
孫のために用意していたお年玉を息子に渡して、私は追い立てるようにして彼を玄関に送った。
(3)
松の内が明けて、スーパーにも普段の顔をしたお客が来るようになった。
レジが新しくなるというので、20人近くいるパートの女性に順番に講習が行われている。
今度のレジはつり銭が自動的に出てくる新しいテックの機械で、操作も簡単だった。基本のところは今使っているのと変わらない。誰でもすぐに覚えられる。小銭が勝手に計算されて出てくるのが楽であった。
そして、お客からもらった小銭も一箇所に投入するだけで良い。
1円、5円、10円、50円、100円、500円と区分けする手間も省ける。その分、お客を待たさなくてもいいので、気分が楽になる。
レジを閉めて出し入れの計算をして、1000円以上の不足が出た場合は、始末書を書いて弁償しなければならない。錯覚でつり銭をまちがって少なくわたすと目くじら立てるお客も、多くもらった時は何も言わない。
500円前後の過不足は結構あった。
それが、新しいレジでは解消されると思うと、新しい機械への期待ははずむ。もうすぐさよならする古いレジを眺めて、少し感傷にひたっていると、社長が目の前に来た。
黙って籠を置く。私は精一杯大きな声で、マニュアル通りの挨拶をした。
素知らぬ振りをすることは難しい。お互いに周囲に気を配りながら、社長と従業員を演じた。
いつものように、彼は5000円札を出す。私はお釣りを彼の手の上に載せながら、目を見た。 彼は小声でひとこと、「メールを」と言った。私は小さくうなずきながら、胸がどきどきした。
社長が籠の中から果物を取り出してナイロン袋に入れ、出口から消えるとほっとした。フロア―の主任が寄ってきて言った。
「夜は完全袋詰めって、言ってあるでしょう。社長のもきちんとこれからは袋に入れてくださいよ」
「はい、すみません」
蚊の泣くような声で謝ってから、私はすこぶる落ち込んでしまった。
あの雪の哲学の道での出会い以後、ネットでメールのやりとりをし、お互いの心が急速に高まっていた。
私は、安らかにレジの仕事ができない状態に陥っていた。
そんな私の様子にいちはやく気がついたのが孫さんだった。彼女は小声で私に言っていた。
「大和田さんは、社長の時には何か緊張していますね。いつもの大和田さんじゃないみたいです……ふふ。」
恋の悩みを私に相談した孫さんは、カップルのお客が来ると、恋人同士の場合はブイサインをして見せて、夫婦らしき二人の時は人差し指、ただならぬ関係の二人の場合は小指を立てて私に合図する。
それを見て、私はうなずいたり、首をかしげたりして微笑むのである。
孫さんは私のエプロンのポケットに手を突っ込んできて、Vサインをした人差し指と中指で、私のお腹を押した。
「どっちも、独身だから、おまけです。」
にやっと笑って、孫さんは自分のレジへ引き返した。私は返す言葉がなくぼやっとレジの画面を見ていたが、胸は早鐘のように動悸を打っていた。
「大和田家は使用人と結婚させる事はありませんよ。」
夫と結婚する前に、知人に言われた言葉を思い出した。彼の車で実家に遊びに行った時、事務員をしている洋子という女性が、彼の助手席に乗り、彼のジャンバーをしっかりと抱いていた。洋子はどうも思いを寄せているようで、初対面の私にどこか冷たい目を向けてきた。
結婚の話がなかなか進まなくて少し気がめいっていたとき、知人が探りを入れにきたのである。私の実家とは少なからず取引があった商店主であった。
社長との結婚を考えているわけではなかったが、時代に育てられた差別意識がふと頭をもたげてくる。
カーテンを開けると、琵琶湖に雪が舞っている。利休鼠のような鉛色の湖に真っ白な雪が斜めに落ちてゆく。ひんやりとした空気がガラスを通して胸にあたる。
17階からの下をみる。雪は吸い込まれるように地上に落ちてゆく。
けだるい気分のまま、私は雪の落下を眺めていた。
「何を考えているの」
声がして振り返ると、彼が手招きをした。うなずいてベッドにもどる。
「結婚しよう」
「こうなったから?」
「いいや、ずっと考えていた。君となら楽しい後半の人生が送れる、そう感じていたから」
私は一夜を過ごすことになんの不安もためらいもなかった。こうなるまで、短期間であったけれど、煩雑なメールのやりとりや電話をしていた。彼のもっている精神性、生活信条すべてが私を魅了していた。
「結婚はまだ考えたくないわ」
「どうして……」
「結婚はもうこりごりとは思わないけどね」
私は笑った。
「このままのほうが楽しいし、楽だと思うからね」
「独身どうしだし、お互いに縛るものはないでしょう」
彼が言った。
だれにも、縛られたくない。結婚と言う枷にも……。私は心の中でその言葉をつぶやきながら、シーツをめくって彼のベッドにはいっていった。
私は私自身を掴みきれていなかった。どうして家をでたのか、これから何をしたいのか。こんなに好きになってしまったのに、飛び込んでいく事をためらっている自分……に。
彼が顔を覗き込んで言った。
「何かほかの事を考えているでしょう」
30センチばかり開いたカーテンのガラス窓の向うは吹雪になっていた。
シャワーを浴びて身支度を整え、私たちは28階のレストランにむかった。自然な形で彼によりそう。もう何年も暮らしてきた夫婦のような、そんな雰囲気が私たちにはあった。
琵琶湖に向かって円形になったホテルは、レストランもそのままの形で、窓辺にテーブルがある。半分はラウンジになっている。
昼食のメニューが彼と私に渡される。彼はタバコを出しながら、私の目を見た。私はさっさと自分の分を注文して笑った。
意味もなく笑う自分がとても不思議だが、この穏やかな気分はすてがたい。
窓外は雪で視界がさえぎられている。はるかな湖北は望めない。しかし、雪で遮断された世界は私たちをまたもうひとつの世界へといざなってくれた。
「お店をやめようと思います」
孫さんに心を見られてから、私はいつそれを切り出そうかと悩んでいた。
いずれ社員衆知の事実になる。それは彼にとっても、また同輩にとっても仕事がやりにくいに違いないから。
「ぼくの夢を手伝ってくれますか」
彼の言葉が私を驚かせた。
「蔵書が2万冊ばかりあります。僕が趣味で集めたものばかりですが、それを学生に開放したい。僕は苦学したので、本もろくに買えなかった。そばに、喫茶室を作って、コーヒー一杯でいつまでも勉強できるようなそんな空間を作りたいのです」
オードブルが運ばれてきて、その話はそこで終わった。
「明日、退職願いを出します」
私はいい、フォークとナイフを取り上げた。
彼は黙ってうなずいた。
雪が少しまばらに降るようになった頃を見計らって、浜辺を歩く事にした。湖から吹く風に乗って雪は傾けた傘の中にもはいってくる。
暖かいホテルの中で、コーヒーをすすっていればいいのに、私はなぜか浜辺にでたかった。
彼もだまって歩く。
水面に落ちた雪は瞬時に水となり、姿はなくなる。人の心も一緒、と私は思った。心の中にある温かい思いは彼に寄り添う事で、彼の体温に吸収された。いっぱい私の温かい心をあげる……少女のような言葉を心の中でつぶやきながら、湖面を眺めた。
「こんな雪の日に、琵琶湖に来たことなんてなかったね」
彼が見えない湖北に視線を移しながらつぶやくように言った。視界は烏丸半島までだった。ぼんやりと左手に比叡山がかすむ。
「この風景は、一生ぼくの脳裏に焼き付いて離れないだろうなぁ」
彼の言葉のうらにある思いを感じて、私はうれしかった。一人暮らしをはじめるまでのあの葛藤の中にあった自分がようやく解放されたような気がする。あたらしい恋との出会いは、想い出から涙をとりさり、新しいページを追加する事ができそうだった。
「ロマン・ロランの本、変えっこしない?」
彼が私の傘の端を持ち上げ、顔を覗き込むようにして言った。
「僕の気持ちの証、あなたはあなたの気持ちを僕に……」
まあ、少女のような気持ちね、と心の中で思いながら、私は笑顔でいいわよと答えた。
あの本を拾い上げた雪の日の彼の淋しそうな顔が一瞬思い出された。
私はハンドバッグを開けて、文庫本を取り出した。彼はポケットから文庫本を取り出した。カバーがクリスマスデザインの表紙から、薄い紫色の波模様に変わっていた。
「あら、カバーを変えたのね」
「君のと交換するためにね。一生懸命選んだよ」
「私は、セロファンがかかったままのなんの変哲もない文庫本だけど」
「ま、指輪の交換の変わりにってことで……」
彼は笑いながら私の手に文庫本を載せ、私の手から同じロマン・ロランの文庫本を取り上げた。彼はその表紙を少しの間眺めていたが、コートの上着のボタンをはずして、内側のジャケットのポケットに入れた。
私は薄紫の表紙のロマンロランをバッグに入れた。
二つの傘を寄せるようにして、浜辺を歩いた。言葉は何もいらない。二人だけで雪の世界に遊び、漣の音に耳を傾けた。
肌を重ねる事で、心が相手に移行するとしたら、結婚は果てしなく相手にのめりこむはずなのに、実際は、そうはならず新鮮さがなくなるのは、生活をともにしているからだと、夫を亡くしてからの私は考えていた。
安穏な生活、経済も日々の暮らしも、一人の男に囲われた結婚生活は、もやがかかったように私の目に、美しい花の新鮮さを見えなくしていた。
もしも、ほんとうに好きな人が現れたら、今度は結婚しないでずっと最後までお付き合いしたい。恋人のままでいたい。それが私の漠然とした思いだった。壊れるならば壊れてもいい。結婚という枷の中で、愛する気持ちを無くしたもの同士が生活するのはもう嫌だと……。
彼に対してもその気持ちが強い。ロマン・ロランを交換してから私は強くそう思っていた。たった一人を愛する事に恐れも不安もない。相手の心がよそへ向いたとき、そこから離れる事ができる位置に、自分を置いて置きたいと思う。
それは自分が傷つくのを恐れるのではなく、自分の愛する人との関係を美しいままで保ちたい、そんな想いからだった。実際にそのような場面になった時、冷静に行動できるかどうか、自信はなかったけれど、夫が浮気をした時のように、心の修羅はもう味わいたくなかった。
その一瞬はお互いがお互いを求めていても、それが続くという自信はもう私にはなかった。私が続けられないと言うのではなく、相手が永遠にそうであると信じる自信がなかったのである。そういう意味では、彼より私のほうが醒めているのかもしれない。
レジのパートをやめる事を申し出たが、理由に窮した。マンションはスーパーの上であるから、入り口は別としても、多忙とか親族の入院とかいいかげんな理由は言えない。とりあえずは、慢性疾患が見つかったからと言う事で、辞表を提出した。
忙しいときはまた、手伝ってくださいと丁重に言われて、少し心が痛んだが、事務所を出るときには、ほっとした。
社長との事が明るみに出てからやめるのは、もっと心が痛むに違いないから。
マンションに戻って、ベランダから外を見ると、葉っぱ一枚も付いていない銀杏の大木が梢を風に震わせていた。
雨のようにはらはらと葉っぱが落ちた暮れの日から、幾日もたっていないのに、この生活の変化。私は過ごして来た時間をぐるぐると前に巻き戻して、最初から反芻していた。
大げさに言えば、運命の糸はほんの少しだけ私にその端を見せた。それを掴んだのは私。そして引っ張り出して、自分の枷に巻きはじめたのも私。その先に彼がいただけの事。そう考えると、この先の二人がどうなっても、それは自分の決めた事だと、納得がいきそうだった。
突然開けた未来の真っ白な時間を、今度はどうやって埋めようかと、私は思案をはじめた。スーパーのシフトがなくなると、あまりにも沢山の時間が一度に目の前に投げ出されたようで収拾がつかない。
ようやく自分の置かれた立場に、私は気がついた。
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