「 マリーゴールド 」

 電話のベルが鳴った。
 眠い目をこすりながら、枕もとの時計を見ると、針は午前二時を指している。舌打ちをしながら枕元の受話器を取った。
 「高志、寝ていた?」
 と、元気な声。弥生である。にぎやかな音楽が背後に響いている。
 「今どき、起きているのは君だけや」
 高志は騒々しい受話器に向かって怒鳴った。
 「今、京都に来ているの、今夜泊めて。今から行くから、ドアの鍵はずしといてね」
 弥生はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。

 高志はやおらベッドからおりると、弥生のために内鍵を外し、そして、玄関脇の流しで水を飲んだ。
 「また家出だな」
 誰にいうともなく呟く。高志と弥生は京都の大学で知り合った。同期生であり、卒業してから五年になる。卒業後、弥生は故郷の徳島へ帰り、高志はそのまま京都で就職した。男女の関係を超えて、二人は気の置けない不思議な友達である。


 間もなくドアを開けて弥生が入って来た。大きな荷物を背負っている。挨拶もせずに背中のリュックをはずし、どさっと床に置いた。チェックのシャツに綿パン、大きな運動靴、ラフなスタイルである。
 「急にごめんなさい」
 ひとなつっこく、にこっと笑って、弥生は謝った。
 「君はいつもこれや。夜中電話がなると恐怖を感じるわ」
 高志はパジャマのまま、弥生が立っている玄関に向かって言った。
 「まだ、一人もん? 情けないなあ」
 弥生も言い返し、
 「そやけど、そのほうが気遣わんで、ここにとめてもらえる……」
 と笑った。


 「高志、私ベッドに寝るから、あなたは床に寝てちょうだい。固い布団は、私眠れないの」
 「注文の多い家出人やなぁ、いつもの事ながら……」
 高志は押入れから布団の予備を出して、床に敷いた。こうして家出を繰り返す弥生のために、高志は客用布団一式を用意している。
 ワンルーム・マンションの床は布団を敷くと、歩く場所もなくなるほど狭い。高志が布団を敷いている間に、弥生はさっさとシャワーを浴びに浴室へ行った。高志は家出をしてきた弥生に、いつも戸惑いながらそれでも憎めないでいる。


 パジャマ姿で浴室から出てきた弥生は、
 「高志、ごめんな。長旅で疲れているから、事情は明日話すことにして、私、今夜はもう寝る」
 そう言って、濡れた頭にバスタオルを巻いたまま、今しがたまで高志が寝てたベッドに潜り込んだ。
 「ぼくも、痴話喧嘩の話なぞ、聞きとうもない」
 高志も、床に敷いた客布団に入る。
 壁に向かって眠りの体勢に入っていた弥生が、不意にベッドの上から高志を覗き込んで言った。
 「間違っても、ここに上がって来ては駄目よ」
 「毎度の事や、念を押さなくてもわかってますわ。家出してきた他人の奥さんになんぞ、何の魅力も感じません」
 高志はそう言って布団をかぶった。
 「そんな心配するくらいなら、どこかのホテルにでも泊まればいいんや」
 言ってやりたいが、辛抱する。
 弥生は突発的に家出するのか、飛び出してくる時はいつも夜で、その上、必ず高志のところに泊まる。今回で、五、六回ぐらいにはなる。弥生はいつも大きなリュックサックに、小さい頃からのアルバム一式を詰めていて、家での際には必ず背負ってきた。貯金通帳や現金より、想い出が一番大事だと言う。そして、
 「もう帰らへん、絶対別れる」
 と、きっぱりした口調で言うのだが、いつも最後には古巣へ帰ってしまうのだ。


 しばらくすると、すーすーと心地良さそうな寝息が聞こえてきた。恋人でもない男の所へ泊まりに来るのだから、どういう神経なのだろうと、初めは高志も戸惑ったがまるで憎めない。この頃では妹を預かる兄のような気分になっている。


 六ヵ月前に来た時は、目を真っ赤にして大きな眼帯をかけていた。夫婦喧嘩の際、顔を殴られたらしい。眼帯を外した目の周りはない出血で紫色に変色していた。その時も、
 「あんな男の所には、二度と帰らない」
 と、息巻き、散々悪態をついていた。弥生は、一日目は高志の部屋で終日眠り込み、二日目も旦那の愚痴をこぼすかと思ったが何も言わず、またぐっすりと眠っていた。三日目、高志が会社から帰ると、部屋はきれいに片付けられ、掃除がしてあった。
 食卓にはおでんの用意と、―泊めてもらったお礼です―との置き手紙。弥生も荷物もきれいに消えていた。四日目には、弥生は徳島から、電話をしてきた。弾んだ声であっけらかんと言った。
 「ありがとう。また行くね」
 高志はなんだか肩すかしを食らったような気分になった。 


 そっと起き上がって、高志は弥生の寝顔を覗きこんだ。長い睫毛が美しい。鼻は少し上を向いているが、唇は厚く情熱的である。じっと見つめていたら、弥生の目尻に涙の跡が一筋あるのを発見してしまった。枕にも雫が滲みになっている。高志は見てはならぬものを見たような気がした。思わず弥生の頬をなでようと手を出したが、あわてて引っ込めた。触れれば、何かが崩れてしまいそうだった。


 それから、高志は眠れなかった。
 高志にはまだ恋人といえる相手はいない。京都室町の繊維問屋に就職し、職場では多勢の女性に囲まれているが、気に入った女性には会えなかった。職場で一緒の女性の多くは、結婚を目当てに就職している。それがあからさまに態度に出ている。高志は魅力を感じなかった。
 大学時代、文芸サークルで寝食を共にし、男も女もなく芸術論を戦わせた。あの納得の行く会話のできる女性には、そうは簡単にはお目にかかれない。


 高志は仕事に没頭し、疲れた頭はおびただしい数の本をベッドサイドに積ませた。
 学生時代、弥生は将来文壇に打ってでると息巻いていた。小説をせっせと出版社におくりつけていた。高志はそんな弥生を頼もしく思うとともに、彼女の才能を買ってもいた。自分を主張し、表現していく弥生のたくましさに魅力を感じていた。


 そんな弥生がペンを折り、徳島でスナックを始めたと知った時は、さすがに驚いた。結婚したとの事だった。が、友人の話によると、未入籍であり、相手の男は働きもせず、弥生の収入で暮らしているとの事だった。大學を出ながら、そんな生活を始めた弥生を両親が許すはずもなく、勘当同然で実家にも帰れない状態だという。何が彼女をそうさせたのだろうか。
 高志は、弥生に事情を聞きだすような事はしなかった。弥生が話すまで待とうと考えた。しかし、それからかなりの月日が過ぎている。
 学生時代からの、弥生との関わりを思いだしていると、突然、寝返りを打ちながら弥生が叫んだ。
 「もう別れる。何もかも嫌!」
 大きな声に、思わず高志は首をもたげて、ベッドの上の弥生を見た。寝言であった。


 弥生は長い睫を伏せたまま、まだ何事か呟いている。唇がもぞもぞと動いている。切なさが高志の胸をいっぱいにした。男勝りでサークルでも中心的存在であった弥生。闊達で、宴会部長と揶揄されるほど、楽しい事には目のない弥生であった。しかし、それからの生き様を考えると、決して運命は弥生に味方しているようには思えない。弥生にふさわしい男はもっと他にいるはずだと高志は思った。


 不意に母の手紙を思い出した。
 「高志、早くお嫁さんを紹介しておくれ。私のお迎えももうそこに来ているんだよ。早く私を安心させておくれ」
 そんな文をしたためて、母は田舎の秋の実りを送ってきた。つややかな秋の夕陽色をした柿、泥のついたサツマイモ、手作りの梅干、そして掌いっぱいの大きな牡丹餅、段ボール箱に詰められた母の心である。
 高志の故郷は滋賀県である。七十をとうに超した母は、長兄の家族と暮らしている。
 「好きな人を選ぶんだよ。好きな人とならどんな苦労も我慢できる」
 親同士が決めた結婚で、母は苦労した。ぼんぼんで育った父は外に女を囲い子どもまで産ませた。何町歩もある田畑を母に任せて、遊興三昧をしたのである。その父は六十歳を目前にあっけなくこの世を去った。家督は長兄が継いだ。それが田舎のしきたりである。
 しかし、農業を嫌っていた長兄は、家督を譲られると母がこなせるだけの、楽しみ程度のわずかな田畑を残すと、後はきれいさっぱり売却してしまった。その資金を基に、田舎ではそこそこ大きいスーパーを始めた。兄嫁の意向も大分働いたらしい。売ったのがわが子とはいえ、先祖伝来の田畑を売られてしまって、母の嘆きは深かった。母は悔しい気持ち、辛い気持ちを、連綿と綴って高志に送りつけてきた。
 それだけでなく、深夜、長兄の家族が寝るのを見計らって電話をかけてきた。押し殺した声でながながと愚痴をこぼしたのである。
 サラリーマン生活が身についた高志は、故郷へ帰るわけにもいかず、ただ、母の言い分を聞くだけだった。それが精一杯の親孝行だったのである。
 「兄貴のいうとおりにしといたほうがいいよ。それがお袋の幸せにつながるから」
 それだけを繰り返して言った。


 高志は母の事を思い出しているうちに次第に眠くなってきた。ベッドの上ではまだ夢の中で、弥生が何事か争っている。今回は、大分夫婦関係がこじれているらしい。  
  
   
 翌朝十一時頃、高志は目覚めた。弥生が、朝食の準備をしている。ベーコンの芳ばしい匂いが、高志の鼻先をかすめていく。
 「なかなかいい主婦しているなぁ」
 「でも、家ではしないのよ。彼、ベーコンを食べないの。だから、朝は珈琲だけなの」
 「変わった男もいるんやなぁ。そんな男とくっついている女も変な奴や」
 「ほっといて頂戴。人のプライバシーには口出ししないの!」
 弥生が口をとんがらしている。
 「家出人のくせに、態度がでかいぞ」
 高志は言いながら、パジャマのまま食卓についた。
 「今日、琵琶湖へ一緒にいかないか。仕事でいくんやけど、車でいくからドライブがてらにどうや?」
 「うん、気晴らしにいいね」
 「琵琶湖の西にあるスーパーの商品リサーチや。祭日だから、わが社の製品がどの程度注目を集めているのか、この目で見ときたいのでん。客に混じってちょっと見とこうと思っている」
 「高志、まあまあ商売人しているのね。仕事の虫になっている……」
 「まあな、男は仕事ができてこと、男だからなぁ。そのうちにぼくも扶養家族をやしなわんといかん時がくるからなぁ」
高志は言ってしまってから、しまったと思った。弥生の旦那に当て付けを言ったようなものである。
 「結婚するの?」弥生が聞いた。
 「いや、お袋にせかされているだけや。男にも年頃や旬があるらしい。それを逃すと一生独身やと脅かされた。今は男が余っている時代らしい」
 弥生が大口をあけて笑った。
 「でも、高志はいいお婿さんになれるわ。女の人にやさしいから」
 弥生の目がどこか淋しげである。高志は胸が痛んだ。
 「今頃の琵琶湖はきれいなんや。弥生が一緒やとなおさら楽しい。また、学生時代みたいに文学の話でもしよう」
 「わたし、文学なんかとうに忘れた」
 「なんや、もうはじまったんかいな。都合の悪いこと聞かれたら、忘れた振りする癖……」
 高志の言葉に、弥生もつられて笑った。


 食事が済むと、二人は高志の車で琵琶湖へ向かった。琵琶湖の湖西、国道百六十一号線は祭日だというのに案外空いている。
 湖の上に広がる空は透きとおるように蒼い。湖面は優しくおだやかで油を流したようである。銀色に白く光って見えた。
 琵琶湖大橋のたもとの大手スーパーで、商用を済ませた高志は、白髭神社まで車を駆った。広島の安芸の宮島を思わせる風景である。素朴な鳥居が琵琶湖の中に両脚を浸けている。その向こうに湖東の山々が横たわっていた。国道を挟んで、山手に神殿がある。神殿はこんもりと鎮守の森に囲まれていた。社殿は古くなかなか重厚なつくりである。
 じっと湖水を見つめている弥生に、高志は語りかけた。
 「ここは、ぼくの心が一番落ち着く場所なんや。あの向かいのなだらかな山々が、夕方には墨絵のような風景になる。まるで、仏様がこちらをむいて、横たわっているように見えるんや。心が和むよ。心がやさしくなっていく。このゆったりとした悠久の時と広がりを何かで表現したいと思い続けているけれど、未だに果たせないでいる……」
 「ほんとうに、こんなにゆったりした風景をみるのは、私も久しぶり。京都の寺社巡りをした時の気分とは、また違うわね」
 高志は、弥生が琵琶湖の風景を気に入ったようなのがうれしかった。
 「旦那に、まだほれているのか」
 唐突に切り出した。
 「夫の話はやめとくわ。こんな時に思い出したくもない。高志も無粋ね」
 弥生はそう言って、砂浜に向かって歩き出した。
 「こんなゆったりした風景に会うと、悩んでいるのが馬鹿みたいに思えるわね」
 高志にいっているのか、自分に言っているのか、弥生がぼそぼそつぶやいた。高志も弥生の後に続いて砂浜におりた。弥生は湖東の山々を眺めている。学生時代より少しふっくらした弥生の後ろ姿がそこにあった。


 高志の実家は白髭神社から少し北に行った集落にあった。
 「いらっしゃい。ゆっくりしていってくださいや」
 かぶっていた手ぬぐいを頭からはずしながら、高志の母は愛想良く言った。髪はもう半分ほど白くなっている。皺だらけの手で、盆にお茶と柿のむいたのを添えてだしてくれた。
 「どこから見えました?」
 高志の母の問いかけに「徳島です」と答えて、弥生ははにかんだ。
 「急に京都へ来たものですから、懐かしくて久しぶりに高志さんにお会いしたのです。学生時代が懐かしくて……」
 「京都もよろしいけど、琵琶湖もよろしいやろう」
 母の言葉に弥生はゆっくり頷いた。
 「とても心が和みますね。空は蒼いし、空気は澄んでいるし。それに雲も真っ白で。もっと早くに滋賀県をしっておけばよかったと後悔しています」
 「今からでも遅くないですよ。ちょこちょこ遊びに来てください。高志は口数は少ないですが、気は優しい子ですから。親の私が言うのもなんですが……」
 高志の母はにこやかに、弥生の目をじっと見つめた。その目に戸惑いながら、弥生は出された柿を口にほうばった。
 縁側の前は畑になっている。茄子や大根の列が続いている。畑を囲むように、茶の木が植えてあり、それが生垣の役割をしていた。畑の隅に花を植えてあるところがある。菊やコスモスの花が満開である。濃い紅紫のコスモスが、時折吹いてくる風に群れごと揺れていた。背丈の低いマリーゴールドが植えてある。卵の黄身のような、深みのある黄色が秋の陽射しの中に弾けていた。眩しいほどの群れだ。茄子がたわわに実っている。全てが紫色だ。紫紺の茄子を支えている軸や幹までが紫色なのを発見して、弥生は嬉しく新鮮な気持ちになっていた。
 高志のマンションの段ボール箱に入っていた数々の野菜は、ここから送られてきたのだと弥生は知った。じんと胸にせまってくるものがある。思わず立ち上がると、茄子の畑に近寄った。涙を高志に見られたくなかった。
 しばらくして、高志の母が、箱いっぱいに大根や茄子や柿を入れて持ってきた。
 「これを、宅急便で弥生さんのお家へ送っておあげ。こんな野菜、なんもめずらしゅうはないけど」
 そして弥生に向かって言った。
 「農薬を使うてないので器量は悪いけど、味は保証しますよ。私の楽しみは野菜をつくることでね。子どもたちが一人前になった今、これが私の子育てになりました」
 にっこりと微笑んだ顔が高志にそっくりである。手が土で汚れている。手の皺の中にも土が入り込んでいる。
 「こんな息子ですが、どうぞよろしくお願いします」
 三十前の男なのに、親の前では小学生の子どもと同じ扱いである。高志は母の言葉に苦笑しながら、箱を受け取ると車に向かった。
 二人は挨拶もそこそこに、高志の家を出発した。村道の真ん中で曲がり気味の腰を、手を添えて伸ばしながら、高志の母は二人の乗った車を見送っていた。
 弥生は、高志の母が点のように小さくなってもまだ、後部に向かって手を振っていた。高志の耳には、弥生に聞こえないように小さい声で囁いた母の声が残っている。「良さそうな娘さんだね。お母さんは気に入ったよ。大事にするんだよ」
 まなじりを下げてうれしそうに言った。そんな母に「人の嫁さんだよ、ただの友達だ」と言えず、高志はごまかし笑いをしただけだった。


 マンションに着くと、急に弥生は徳島へ帰ると言い出した。
 「夜行列車で帰る」
 有無を言わさぬ響きがあった。準備をしている間中、怒っているようだった。野菜を宅急便で送らずに自分で持って帰ると言う。
 リュックサックに、高志の母から貰った野菜を詰めている。リュックサックにはいっていた自分のアルバム十数冊は、段ボール箱に入れ替えた。それを徳島の自分の家に送ってほしいと高志に言う。
 そして、リュックサックを背負い、まるで戦後の買い出しだと笑った、うれしそうにはしゃいでいる。こんなに陽気にはしゃいでいる弥生を見た事がない。
 すっかり支度が整い、玄関で靴を履いた後、弥生が手を出した。
 「高志、有難う。わたし、元気が出たから帰るわ」
 高志は何も言わずに弥生を見つめた。握手の手を出す代わりに言った。
 「帰るのやめろよ」
 沈黙が流れた。弥生の大きな瞳が凝視した。長い沈黙の後、弥生は爪先立って、自分の唇を高志の唇に押し付けた。はなびらがそっと触れたような軽い口づけだった。
 高志は弥生を抱いた。弥生はその手を静かに解き、無言でドアを開けて出て言った。
 秋の実りでいっぱいのでこぼこのリュックサックが背中で揺れていた。


 高志は徳島の弥生に、宅急便を送る事が出来ずにいた。十数冊のアルバムの入った段ボール箱はベッドサイドで、主の現れるのを待っている。
 弥生が高志の母から貰い、花瓶に指していったコスモスは枯れ始めたが、マリーゴールドの花はまだ生き生きと咲いている。
それは高志の部屋の中に、日溜りのような温もりと色彩を与えていた。